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美当一調とは?



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美当 一調(びとう いっちょう、1847年弘化4年)12月22日 - 1928年昭和3年)11月16日)は、明治時代に九州地方で活躍した講談(軍談)師。肥後国(現熊本県)生まれ。
本名の尾藤新也でも活動する。
講談に三味線を加えた形式で、主に日清戦争日露戦争などを題材として「忠君愛国」「仁義忠孝」を歌うものとして高く評価され、 後に九州から日本全国を制覇した桃中軒雲右衛門を通じ、浪花節の成立に大きな影響を与えた。
目次

 1 生涯
 2 芸風と評価
 3 参考文献
 3.1 音声資料
 4 脚注
生涯

1847年(弘化4年)、熊本藩細川家の尾藤家(大尾藤家)三千石の支流(小尾藤家)の雅楽師範で四百石取り[1]の家に生まれ育ち、その家柄から幼い頃から音曲に親しみ三味線をよくし、詩文・武芸にも長けていたという。1866年(慶応2年)18歳のころには第二次長州征伐で小倉口で戦った。1868年(慶応4年)1月3日からの戊辰の役にも参加している。
1873年(明治6年)に兵役に就いて軍曹となり、台湾出兵にも従軍、1875年(明治8年)に病のために軍を辞め帰郷して商売を始め、当時流行していた軍談も素人として演じていた。
明治10年の西南の役では薩軍に加わり、田原坂の戦いで捕まり長崎の獄舎に入る。
熊本には10年10月に戻り、そのころから軍談を語る事を決意する。
芸人になるには地元熊本県に鑑札をもらい受けねばならず、「願い出れば士族の面汚しになる」と親戚・知人など周りから大きな非難を浴びた。
再び鑑札を願い出るが県令に「武士には芸人鑑札を出せない」と説得され、逆に平民になって鑑札を受ける[2]
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