康暦の政変の解説頁です。 Weblio辞書辞典>辞書・百科事典>康暦の政変>康暦の政変の3ページ目

康暦の政変とは?




 越前畠山基国→斯波義将
 越中:斯波義将→畠山基国
 伊勢:山名五郎→土岐頼康
 摂津:細川頼元→渋川満頼
 出雲:佐々木高秀→山名義幸
 石見荒川詮頼大内義弘
 隠岐:佐々木高秀→山名義幸
 備後:今川了俊→山名時義
 伊予:細川頼之→河野通堯
 豊前:今川了俊→大内義弘
 肥後:今川了俊→阿蘇惟村
 日向:今川了俊→大友親世

ウィキペディア目次へ
政変後の状況

頼之の失脚後、後任の管領には義将が就任し、幕府人事が斯波派に塗り替えられ、春屋妙葩も復帰した。
その後、斯波派と伊予河野氏らの圧力で義満は頼之追討令を下すが、河野通堯が頼之に返り討ちに遭ったため追討は中止、翌年には頼之を赦免している。
そして、元中8年/明徳2年(1391年)に頼之の弟の頼元を管領に任命し、頼之自身もその後見として幕政の中心に復帰させていることから、この政変は頼之からの自立を望んだ義満の提唱によって起こされたものと考えられる。
また斯波氏・細川氏両派の抗争を利用し、相互に牽制させて守護大名の強大化を防ぐ狙いがあったとも考えられる。
一方、政変後、鎌倉公方の足利氏満は義満からの問責を受けたため、謝罪の使者として古先印元を派遣して許しを請い、5月2日に赦免を受けている。
だが、翌年3月には氏満の幼少時代からの師であった義堂周信を義満が強引に京都に召し出し、義満の意向を受けた上杉憲方は氏満と周信を脅してこれを受け入れさせる有様であった[1]
これ以後、氏満は将軍家や関東管領に対抗するために自らの勢力拡大を意図して小山氏の乱などを引き起こして関東・奥羽の有力大名を抑圧するようになり、永享の乱享徳の乱まで続く鎌倉(古河)公方と足利将軍家及び関東管領上杉氏との対立の発端となった[2]
楽に探せる!楽ワード

ページ(3/4)
≪前ページ | 次ページ

ページTOP▲
「康暦の政変」の1ページ目
Weblio辞書辞典
「康暦の政変」の記述に関する著作権




ランダム表示|登録辞書一覧
Weblio辞書辞典

お気に入りに登録
友達にも教える

Weblio辞書辞典|ヘルプ|お問合せ
©2019Weblio