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康暦の政変とは?




天授4年/永和4年(1378年)、紀伊での南朝方の武将橋本正督の活動に対して、頼之は弟で養子の頼元を総大将として軍勢を派遣するが、諸将が命令に従わず鎮圧に失敗。
成長した義満は反頼之派の山名義理氏清兄弟を派遣し、大和での軍事活動にも復帰した斯波義将や土岐頼康ら反頼之派を派遣した。
天授3年/永和3年(1377年)には義将の所領内の騒動が頼之の領地であった太田荘(現富山県富山市)に飛び火すると、頼之と斯波派、土岐氏山名氏らの抗争が表面化し、頼之派から斯波派に転じる守護も現れた。
反頼之派の蜂起

天授5年/康暦元年(1379年)に入ると、反頼之派は義満に対して頼之の排斥・討伐を要請し、近江で反頼之派に転じた佐々木高秀が挙兵した。
中央進出への好機と見た鎌倉公方足利氏満がこれに呼応して軍事行動を起こそうとし、3月8日には関東管領上杉憲春が諌死する事件も起こる。
それでも氏満は上杉憲方に出兵を命じるが、かねてから関東管領の地位を狙っていた憲方は伊豆まで兵を進めると密かに義満と交渉して関東管領任命の御内書を得ると直ちに鎌倉に帰還し、4月30日には氏満に迫って管領就任を認めさせた。
一方、京都では4月13日に義満が義将らの圧力で高秀や頼康らを赦免すると、義将ら反頼之派は軍勢を率いて将軍邸の花の御所を包囲し、義満に頼之の罷免を迫った。
そのため義満は閏4月14日に頼之を罷免、頼之は自邸を焼いて一族を連れて領国の四国へ落ち、その途上で出家した。
守護改替

政変後は大幅な守護改替が行われ、細川派から斯波派の大名への加増がほとんどであった。
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