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鹿内春雄とは?




父親である信隆が進めた「正論」路線は継承するものの、「行革」キャンペーンは社会的に不人気と見るや路線変更し、代わって「夢工場」や映画『ビルマの竪琴』『南極物語』など大衆に夢を売るキャンペーンに奔走した。
これから遡る1970年には、信隆が番組制作部門を日枝久などが旗揚げした労働組合潰しのためフジテレビから切り離していた。
制作部門に組合員が多く彼らは地方や関連会社に左遷され、現場は活気が無くなり視聴率は落ち込み低迷した。
このとき組合書記長だった日枝久や横澤彪など、のちのフジテレビを支える実力者も例外なく左遷させられた。
そんな父の姿を見てきた春雄は、父の反対を押し切り著名な放送作家などをブレーンにして機構改革を断行し外部委託だった制作部門を左遷させた社員とともに、フジテレビ編成局の下に戻し「編成主導」の番組制作を行った。
当時編成と制作を融合させた機構改革は斬新的でその後、各局がその方法を取り入れるようになった。
また組合員の復権も行い、実力があれば重用する人事も行った。
その後の躍進に功績があった人物を後継者におき、日枝久も40代であったが役員に抜擢した。
こうした実力主義による改革は、フジサンケイグループ内では制作部門を中心に強力な支持を受け、フジサンケイグループは父・信隆による硬派路線を脱却して「軽チャー路線」とも呼ばれる黄金期を迎えることになる。
1988年4月16日、肝炎の発症等により42歳の若さで急逝。
『厚子手記』によれば、「兄があんなに早く亡くなったのも、母の信仰がその理由の一つなのではないかと思っています。
兄は亡くなる八年前にB型肝炎を患っていました。
…ところが母は、西洋医学や病院を信じないので一切見せない。
…N先生の作る漢方薬しか与えないのです。
病院につれていって、しっかりした医療処置さえとっていれば、兄があんなに早く亡くなることはなかったのではないかと私には思えてならないのです」という。[3]

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