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鹿内信隆とは?
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鹿内信隆
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産経では主流派の御用組合化に反発した社員が“闘う”組合(反リストラ・マスコミ労働者会議産経委員会、通称「反リストラ産経労組」[14])を結成。
後に社長を務めた日枝久や横澤彪などのフジテレビ関係者が後に「恐怖政治だった。
」と回顧する程であったが、五社英雄は信隆シンパであったという。
一時フジテレビの制作部門が本体から切り離され、子会社として設置した「ワイドプロモーション」所属の社員として本体社員よりも(待遇・給与面において)一ランク下の位置付けで扱われるに至ったのも制作部門の社員に労組の幹部が多数在籍していたことから、部門全体に連帯責任をかぶせる意味合いで採られた措置であるとされている(のちに「ワイドプロモーション」は「フジ制作」に名称を変更、1980年に本体に吸収されこれによりフジテレビ内の制作部門が完全復活した)。
・社長時代は、フジテレビ・ニッポン放送では正社員にあたるアナウンサーへの女性の採用を禁じ、派遣社員クラスにあたる報道局所属のレポーターとしての採用[15]や、25歳での結婚退社を強制した。
ただし、議長に復帰した1988年は男女雇用機会均等法の制定後であったことから、長男の春雄が行った女性差別制度廃止の措置を撤回させることはできなかった。
・「新聞が本当に不偏不党の立場でまかり通るような安泰なものに、今、日本の国内情勢が成っているでしょうか」「敢然と守ろう『自由』、警戒せよ、左翼商業主義!」(産経新聞創刊に際して広告主向け説明会で発言)
・1973年(昭和48年)、サンケイ紙上に「正論」欄登場(のちに論壇誌として独立する)。
右派・タカ派知識人を総動員して反共・国家主義を提唱。
・余談だが、1973年6月に、当時のフジテレビの人気歌謡番組「夜のヒットスタジオ」で「共産党バンザイ」発言を行った前田武彦が同年秋の改編で司会を降板したのも、右の前田の発言・行動が鹿内の「反共」の考え方と相容れないものであると判断されたことによるものと言われている。
各マスコミは前田に対する批判を展開する論調がある一方で、「鹿内の考えに合わない人間を徹底排除する」という鹿内体制下のフジサンケイグループの企業体質に対して徹底的に問題提起を行う論調もあるなど、「共産党バンザイ事件」は単なる一番組内での不祥事という範疇を超え、マスコミ業界全体の論調を二分させる事態となった。
・1978年(昭和53年)5月、編集主幹として、編集の全権を掌握(通常・新聞社においては経営者と編集者は兼務しないことになっている)。
・1989年(平成元年)10月、10億ともいわれる巨費を投じて、ロナルド・レーガン米前大統領(当時)を招待し、産経新聞では20ページからなる特集記事を掲載。
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