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鹿内信隆とは?
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鹿内信隆
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大学を卒業した1936年(昭和11年)には、当時早稲田大学教授で東京日日新聞の副主筆も務めていた阿部賢一の斡旋で倉敷絹織(現在のクラレ)に入社した。
鹿内は、同社専務で事実上の社長を務めていた菊池寅七に預けられたが、菊池は後に信隆の岳父となった。
鹿内は四国の工場に配属され、1938年(昭和13年)になると、特殊金属を扱う企業として新たに倉敷絹織が設立した三徳工業に転籍した。
1938年(昭和13年)応召し、予備役召集第1回の士官候補生となり牛込区若松町に置かれていた陸軍経理部に進み、のち主計少尉。
軍務時代慰安所設置などに尽力(本人著「いま明かす戦後秘史」に詳しい)。
また、日清紡の営業部長で軍と折衝していた桜田武や大日本再生紙社長の水野成夫らと、需給計画を通じて知り合う事になる。
岩畔豪雄をリーダーとする陸軍戦備課は1938年(昭和13年)、軍用の製紙会社・国策パルプを設立し、続いて水野と南喜一を支援して1940年(昭和15年)大日本再生製紙を設立するが、鹿内はその担当事務官であった[5][6][7]。
ただ、水野は岩畔との関係からインド独立工作に一生懸命で、水野に会ったのは戦後だという[5][6]。
除隊後の1943年(昭和18年)、鮎川義介の日産コンツェルンが資金的にバックアップしていた日本電子工業の創立、戦後の経済同友会創設に参画。
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