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鳴尾とは?




後に一つの鳴尾村となる三角州上の4村は別々の領主を戴いていた。
鳴尾村は天正年間に佐々氏の領地となった。
しかし、元禄11年(1698年)佐々喜三郎の時に徳川氏直轄(天領)となり、延享年間になってそのうち六分三厘[1]の地が篠山城主青山下野守[2]に与えられた。
しかし延享4年(1747年)に再び徳川直轄となった。
この一度篠山藩領となった六分三厘を新科、残り三分七厘を古科と呼び、古科の庄屋は代々濱家が務め、第一代市郎兵衛から五代に渡って同名を相伝し、六代目を市郎介といった。
新科の庄屋は代々高須家は務め、第一代を善兵衛、二代目の善右衛門、三代目の藤右衛門を経て四代目は再び善兵衛を名乗った。
小松村は中世の荘園制では今津と津門と共に仁部の荘に属し、小曽根は鳴尾の荘に属した。元和年間に尼崎藩領となった。
上田新田は享保年間に篠山藩領となった。
低湿地のため度々武庫川の洪水で大被害を受けており、特に万治2年(1659年)の「戸崎切れ」と呼ばれる洪水では全村が流されたという。
宝暦9年(1759年)には武庫川尻の丸島(現・尼崎市域)の鳴尾村による開発を巡り鳴尾浦に入漁料を支払っていた尼崎浦が漁場利用権の侵害として異議申し立てをし紛争している。
その後も積極的に丸島開発を行い、度々対立し、最終的に杭を打ってその東方を西新田村(現・尼崎市域)、西方を鳴尾村とすることで決着。
これが平左衛門新田となり、丸島はその後尼崎側と陸続きとなって、鳴尾村域が武庫川の左岸に小さな村域を有することになる。

維新後

摂津国武庫郡兵庫県となり、この地区は明治4年(1871年)に区制(大区小区制)により第七区となった。
各部落に副区長を置いて一般事務を取り扱ったが、明治12年(1879年)区制は廃され、副区長の代わりに戸長が置かれた。戸長役場はどれも戸長宅であり、名のみの存在だった。連合戸長役場制が強いられると鳴尾村に鳴尾村外三箇村戸長が鳴尾地域全体を管轄した(明治14年11月~明治16年10月1日の間単独戸長が認めれら鳴尾村と小曽根村が武庫郡鳴尾組として連合戸長、他2村が単独戸長だった時期を除く)。

村政時代

詳細は「鳴尾村 (兵庫県)」を参照
その後、明治22年(1889年)、町村制施行に伴い、鳴尾村に小松・小曽根・上田新田の各村を合併した。
武庫郡誌』によれば、当時のこの地域の気風は小松・小曽根・上田以外(すなわち旧・鳴尾村)の者は天領の住民であったため威張り気味で、一般に朴直だが容易く粗暴に流れ野蛮な行為をはたらいたという。
かつては年中行事として7月24日には盆踊りを行っていた。
床と称する地車様の楼台2つを2箇所の広場に出して、音頭をとる者、三味太鼓の囃子方を務める者が楼上に集まり、多数の男女が周囲を廻って踊り、「鳴尾踊」と称した、近村から見物人多く有名だったが、暴飲暴食しその結果喧嘩口論等が常にあり、往々に殺人沙汰にさえなり、明治30年前後に廃絶された。
明治38年(1905年)阪神電車が開通。
翌年は鳴尾百花園、明治40年(1907年)に鳴尾競馬場、大正時代に運動場・ゴルフ場ができた。
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