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都久夫須麻神社とは?
ウィキペディア目次へ都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ)は滋賀県長浜市の竹生島にある神社。竹生島神社(ちくぶじまじんじゃ)とも。式内社で、旧社格は県社。目次
1 歴史
2 祭神
3 文化財
4 行事
5 交通アクセス
6 関連項目
7 外部リンク
江戸時代までは神仏習合であり、隣接する宝厳寺と一体化していた。
社伝では、雄略天皇3年(420年)に浅井姫命を祀る小祠が作られたのに始まると伝える。
『近江国風土記』には、夷服岳(伊吹山)の多多美比古命が姪にあたる浅井岳(金糞岳)の浅井姫命と高さ比べをし、負けた多多美比古命が怒って浅井姫命の首を斬ったところ、湖に落ちた首が竹生島になったという記述がある。
一説には首が沈む時に「都布都布(つふつふ)」という音がしたので「都布失島」という名前になったとも、最初に生えたのが竹であったことから「竹生島」という名前になったともいう。
神亀元年(724年)、聖武天皇の夢に天照大神が現れ、「琵琶湖に小島があり、そこは弁才天(弁財天)の聖地であるから寺院を建立せよ」との神託があったので、行基を勅使として竹生島に遣わし寺院を開基させた。
行基は弁才天の像を彫刻して本尊とした。延喜式神名帳では小社に列する。
中世ごろから、比叡山の影響のもとに神仏習合が進み、弁才天を本地仏とし、「日本三大弁才天」の一つと称されるようになった。
日本最古の弁才天、弁才天の発祥地とも言われる。
明治に入り、明治新政府は神仏分離令を出した。
これに基づき大津県庁は宝厳寺を廃寺にして神社とし、延喜式神名帳に見える「都久夫須麻神社」と称するよう命じた。
日本全国の崇敬者の強い要望により宝厳寺の廃寺は免れて寺院と神社の両方が並存することとなった。明治7年(1874年)に都久夫須麻神社と宝厳寺の境界が決められ、明治16年(1883年)に両者の財産が区別された。
以降、都久夫須麻神社と宝厳寺は別の法人となっているが、今日でも都久夫須麻神社の本殿と宝厳寺の観音堂は舟廊下で直接連絡しており、両者は不可分のものとなっている。
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