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藍玉_(明)とは?


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藍玉(らん ぎょく、? - 1393年洪武26年)2月10日)は、中国代の将軍。
明初期に軍事的功績を挙げて大将軍・涼国公に栄進したが、それによる思い上がりと普段からの傲慢な振る舞いによって藍玉の獄と呼ばれる疑獄事件を引き起こした。

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1 略伝
2 藍玉の獄
3 脚注
4 参考文献
5 関連項目

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略伝

兄は軍人の藍栄、姉は常遇春の妻である。
常遇春の麾下で活躍し、常遇春の推薦によって管軍鎮撫に取り立てられ、軍功を重ねて大都督府僉事に昇進した。
その後傅友徳四川平定や、徐達の麾下で漠北で戦ったりと外征で功を挙げ、西蕃討伐でアムドカムの部族長達を従属させると功績を評価されて永昌侯に封じられた。
そして藍玉は徐達や常遇春亡きあと、軍の中核的存在となった。
1388年、失脚した馮勝に代わって大将軍に任命された藍玉は15万の兵を率いて北征し、ブイル・ノールの湖畔でトグス・テムル軍を大いに破り、トグス・テムルは逃したものの、その妃や次子・地保奴(ティポヌ)、太子妃をはじめとする8万人近くの捕虜を得て凱旋した。
その後、普段から素行の悪い藍玉がトグス・テムル妃を辱め、自殺に追いやったという噂が広まった[1]
元より藍玉は素行が悪く、領民の土地を占有したばかりか咎めた官吏を放逐する、軍令を破って強引に閉門した関所を通行するなどの振る舞いは洪武帝を不快にさせていた。
このときも洪武帝の怒りを買ったが、梁国公への封爵が取り止めになるだけで済んだ。
しかし、藍玉はこれに懲りた様子を見せなかった。
傅友徳ら他の功臣よりも位が低いとして爵位昇格を要求するなど、態度は改まらなかった。
そしてついに1393年に謀反の意ありとされ、誅殺された。

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藍玉の獄

藍玉の獄が起こる前にも、洪武帝はすでに胡惟庸の獄など類似の事件によって功臣を粛清し、皇帝の権力を強化してきていた。
そして1392年に後継者である皇太子朱標(懿文太子)が 急死すると、その第二子朱允炆が皇太孫となるという事態になった。
また、藍玉の娘は蜀王朱椿の妃で、常遇春の娘が懿文太子の妃であることから藍玉は皇太孫の大叔父となり、皇室と二重につながりを持つことになった。
このことから洪武帝は、後嗣である皇太孫の行く末にさらなる不安を覚えるようになっていた。
このような状況の中、藍玉の行状のひどさは洪武帝に格好の功臣粛清の機会を与えてしまうことになり、藍玉の立場は皇太孫の権力を揺るがすものと受け取られた。
1393年、藍玉は錦衣衛(秘密警察)に謀反を図ったと告発され、首謀者として処刑された。
それから4ヶ月もの間、次々と連座する人々が摘発され、1万5千人から2万人に及ぶと言われる犠牲者を出した。
このときの藍玉たちの供述や罪状は「逆臣録」として刊行された。

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脚注
    ^ 又人言其私元主妃、妃慚自経死、帝切責玉。
    (『明史』132巻、列伝第20、藍玉の伝より)

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