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義済堂とは?
目次
1 起源
2 名称の由来
3 創業期の義済堂の役割[1]
4 織物企業へと変貌する時期
5 会社組織になってから以降[2]
├5.1 事業内容の変遷
└5.2 運営状況の変動
6 参考文献
義済堂の起源は、1873年(明治6年)11月20日に大阪府の商人である井上重太郎により開店した、義成堂にまで遡る。
このときの業務内容は、旧藩内の諸産物取扱(具体的には、藩政時代は専売制だった岩国紙などの取扱)および質屋であった[1] 。
義成堂が開店した当時、廃藩置県により毛利藩の支藩扱いだった時代の旧岩国藩自身の負債(7万円以上)を継承する事になった吉川家において、負債の返済財源および士族(旧家臣)や村方への既存の貸付金の回収、新規の困窮救済の貸付願の取り扱いをどうするかが大きな問題となっていた[1]。
これらの問題を解決する方策の一つとして、廃藩置県前の明治2年6月1日(1869年7月9日)から廃藩置県の間まで開設されていた博済場(領内所産物の総合的な商品取引所)にて旧岩国藩が与えていた、かつての専売取扱権である産品売り捌き権を、井上重太郎に与え、新規の貸付願に対応する業務も併せあたらせたのが、義成堂の成り立ちである[1]。
(成り立ちについては、かつての家臣であった士族への生計維持の為の就業講習所として設立されたとの説もある[2])
その後、1875年(明治8年)6月に、既存の貸付金の整理回収および、なおも収まらぬ困窮救済の貸付願への対応にあたる岩国用達所の事務負荷軽減などを目的に、吉川家の家職を- 本局(東京本邸)
- 支局(岩国用達所)
- 別局(既存の貸付金の整理回収および貸付願への対応)
の三局に分割した[1]。
この別局に井上重太郎の経営する義成堂を統合したのが、義済堂である[1]。
なお、義済堂を創業する際の資本金である10万円および創業に要する費用としての着手金1万円は、旧岩国藩主であった吉川家(当時の当主は吉川経健)が拠出し、初代堂長には、三須成懋が就任した[2]。
なお、堂長に就任した三須成懋は、旧岩国藩の蔵元内に設けられていた節倹局(慶応3年12月(1867年12月もしくは1868年1月)に設置)の局長だった経歴を持つ[1]。
義済堂という名称の由来は、堂長の三須成懋が明治8年7月15日付で吉川家に提出した別局事務御委任ニ付自ラ権限ヲ請定スル定例の、第三章の中にある文にて定められている[1]。
以下、当該文の抜粋。
但義済ノ名タルハ旧貸ヲ収スルモノモ之ヲ返スモノモ皆義ナリ之ヲ士民教育営業ノ事ニ融通スル亦タ義ナリ此三ノ者タル義ヲ以テ之ヲ済サゝルモノナシ故ニ名ヲ之ニ取ル(...以下略)
藩政時代からのものを含む既存の貸付金を整理回収を実行する事も、整理回収に応じて貸付金を旧藩主宛へ返済する事も、収受した返済金を士族(旧家臣)の就業教育や生業資金へと融通貸出しするのも義に叶う事であるので、これら三つの義を実現をたすける(済(せい)す)為の同門支援組織(堂)として設立したという意味合いが込められた名称として、義済堂の名は定められたと考えられる。
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