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相沢中佐事件とは?
ウィキペディア目次へ相沢事件(あいざわじけん)は、1935年(昭和10年)8月12日に、皇道派青年将校に共感する相沢三郎陸軍中佐が、陸軍省において統制派の永田鉄山軍務局長を殺害した事件。目次
1 概要
2 脚注
3 参考文献
4 関連項目
1931年に三月事件、満州事変、十月事件が起こり、日本陸軍においては統制経済による高度国防国家への国家改造を目指す統制派が革新派の青年将校や皇道派と対立し、1934年11月の士官学校事件、1935年7月の皇道派の真崎甚三郎教育総監の更迭[1]により、反対派を一掃しようとした。林銑十郎陸軍大臣から辞職勧告を通告されると、真崎は「これは真崎一人の問題ではなく陸軍の人事の根本を破壊するものだから承知できん」と反論した[2][3]。
皇道派の将校らは林大臣の行動を統帥権干犯と非難した[4]。
1934年(昭和9年)12月31日の夜、士官学校事件の背後に永田鉄山がいると判断した相沢は、「こんど上京を機に永田鉄山を斬ろうと思うがどうか」と大岸頼好大尉に相談したが、大岸が反対し断念した[5]。
1935年(昭和10年)6月、林陸相と永田軍務局長の満洲・朝鮮への視察旅行中、磯部浅一、村中孝次、河野寿は永田を暗殺しようとした。
義憤を感じたとされる相沢は、総監更迭の事情を確かめようと、1935年7月18日に上京。
翌19日陸軍省軍務局長室において永田少将と面談し、辞職を勧告して一旦帰隊した。
相沢は「教育総監更迭事件要点」や「軍閥重臣閥の大逆不逞」と題する文書を読み、教育総監更迭の真相を知って統帥権干犯を確信した。
また「粛軍に関する意見書」を読み、磯部浅一、村中孝次の免官(8月2日付)[6]を知ると、このままでは皇道派青年将校たちが部隊を動かして決起し、国軍は破滅すると考え、元凶を処置することによって国家の危機を脱しなければならないと決意した[7]。
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