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白豪主義とは?
1920年には、豪政府は先住民族の保護という名の人種隔離政策も行った。
これらによりアボリジニ人口は90%以上減少した。1910年頃から1970年代にかけて、アボリジニの子供を親元から引き離し、白人家庭や寄宿舎で養育するという政策も行われた。
アボリジニの子供も白人の「進んだ文化」の元で立派に育てられるべきという独善的な考え方に基づくもので、政府や教会が主導して行なわれた。
子供のおよそ1割が連れ去られ、結果として彼らからアボリジニとしてのアイデンティティを喪失させることとなった。
彼らは「盗まれた世代」(Stolen Generation)と呼ばれている。
他方、白人が住みたがらなかった不毛な乾燥地域である内陸部のアボリジニは、周辺の厳しい自然環境に守られながら、どうにか固有文化を維持し続けた。
今日でもアボリジニ文化の史跡は、沿岸部都市より隔絶された内陸地に多く残る。
近年のアボリジニ激減に加えて、文字文化を持たなかったことから、文化的痕跡を残さず消滅した部族も多く、彼等の言語や文化の系統を調査する試みは進んでいない。
音声的に完全に失われた言語も多く、それらの民俗学的調査は「既に大半のピースが失われたパズル」になぞらえられている。
大陸への入植者は、初期は白人、それもイギリスからの移民(主として流刑者)がほとんどであったが、1833年にイギリス帝国が奴隷制を廃止したため、各植民地では労働力が不足する。阿片戦争とアロー戦争(第二次阿片戦争)を経て1860年に締結された北京条約で、イギリスや海外の商社が中国人を雇用する権利を承認させたことで、合法的にオーストラリア、アメリカ、カナダに中国人を入植させることができた[2]。
また太平天国の乱の影響もあり、オーストラリアには中国系の移民労働者が相次ぐようになる(多くは広東人)。
1861年で約39000人(総人口134万8100人のうち2.9%)で、1854年から1858年の5年間では45000人が流入する[3]。
北京条約締結同年にニューサウスウェールズ州で反中暴動(Lambing Flat Riots)が起こった。
また、1851年に金鉱が発見され、ゴールドラッシュが始まる。
1870年代にはクイーンズランドで、1890年代には西オーストラリアで金鉱が発見され、中国人労働者は大陸全土に広がった[4]。
それにともなって1870年代以降、中国人をはじめとする外国人労働者に対する労働運動が激化する。
アジア系外国人労働者による労働機会の縮小と賃金水準の低下は、オーストラリアの労働者にとって脅威であった。
そのため労働環境改善を求める労働運動が白豪主義の圧力団体となっていく。1878年には中国人船員の雇用に対して船員組合がストライキを敢行した。1888年には中国人移住制限法が制定される。1892年にも運送業者組合が大規模な抗議運動を展開した。
一方、資本側・経営側は中国人労働者は低コストの労働力となったため、白豪主義に反対していた。
農園主らは主に都市部で発生していた移民(中国人)労働者への制限を求めた労働運動に対して、ノーザンテリトリーやクイーンズランドからアジア人を撤退させたら荒れ地になると反論したが、移民制限は法制化されていく。
労働運動が激化する中、各地で労働党が形成される。
労働党の基本イデオロギーは白豪主義と社会主義であった。
また反権威主義や反エリート主義を掲げ、イギリスからの独立を掲げてもいた[5]。
また1863年、ノーザンテリトリーが南オーストラリア植民地として編入されると、南オーストラリアは当初日本人を入植させる計画を採り、日本からも真珠貝採取や砂糖農園における技術系労働者が流入した。1898年のクイーンズランドで就労していた日本人は3274人に上った[6]。
しかし外国人労働者への排斥運動のあおりを受けて、日本の移住希望者にも「ヨーロッパ言語による書き取りテスト」を課して実質的に流入を阻むようになっていった。
注目の情報
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