瀧山の解説頁です。 Weblio辞書辞典>辞書・百科事典>住所・郵便番号>瀧山>瀧山の2ページ目

瀧山とは?




御年寄である。御鉄砲百人組・大岡義方の長女。
名は多喜とも。
同じころに大奥勤めをしていたませは姪。
生涯

文政元年(1818年)、14歳で大奥に上がる。
その後、才覚が認められて家祥付御年寄を経て将軍付御年寄に任じられた。
14代将軍継嗣問題の際には南紀派(慶福派)に属しており、上臈御年寄歌橋や13代家定の母・本寿院らと共に一橋派と対立。
家定御台所・篤姫周辺らが推す慶喜の将軍就任に反対した[1]
家定は次期将軍に慶福(後の家茂)に決定させ、安政5年7月6日1858年8月14日)に死去した。
10月24日11月29日)に家茂とその実母・実成院が本丸大奥に入る。
実成院はかなりの派手好きで毎晩女中らと酒を飲み騒いでいた。
瀧山は実成院付の御年寄・藤野に「実成院様には、毎晩の御酒を控えるように」と注意を促したが、実成院はこれを聞き入れる事なく騒いでいた。
瀧山は実成院に直接「大奥の風紀が乱れるため、毎晩の御酒を控えるように」と厳重注意をした。
実成院はこれが気に入らず瀧山の注意を聞き入れることはなく、毎晩飲みながら騒いだという。
これまで慶応4年(1868年)の江戸開城に伴い大奥の最後の幕引きをしたと言われてきたがこれより前の慶応2年(1866年)に家茂が亡くなった後、御年寄職を辞したとする説もある[2]
江戸城開城後は自分に仕えていた局の生家を頼り、現在の埼玉県川口市で過ごす。
晩年夫婦養子を迎えて「瀧山」の苗字を名乗らせ、瀧山家を興した。
明治9年(1876年)、72歳で没。
法名は瀧音院殿響誉松月祐山法尼。
墓所は川口市の錫杖寺。
瀧山家
みね(生年不詳 - 没年不詳)
養女。
滝山が引退した後、5歳で養女として引き取られ、婿養子を迎えて瀧山家を起こす。
仲野と同一人物の可能性がある。
不明(生年不詳 - 昭和11年(1936年1月19日?)
養嗣子。
瀧山が川口に隠退した後に、妻とともに養嗣子となり、瀧山を苗字とした。
染嶋(そめしま、生年不詳 - 明治8年(1875年2月22日
叔母。旗本大岡義安の娘。
大奥に仕え、維新後は瀧山とともに川口に隠退する。
墓は錫杖寺の瀧山家墓所にある。
仲野(なかの、生年不詳 - 明治34年(1901年10月5日
侍女。
瀧山が大奥にいた頃より仕えた。
実家は川口にあり、瀧山はそれを頼って隠退したという。
墓は錫杖寺の瀧山家墓所にある。
瀧山の血縁ではないため、瀧山の嗣子となったのは仲野とその夫という可能性が高い。

楽に探せる!楽ワード

ページ(2/5)
≪前ページ | 次ページ

ページTOP▲
「瀧山」の1ページ目
Weblio辞書辞典
「瀧山」の記述に関する著作権




ランダム表示|登録辞書一覧
Weblio辞書辞典

お気に入りに登録
友達にも教える
「瀧山」の記述に関するお問合せ

Weblio辞書辞典|ヘルプ|お問合せ
©2012Weblio