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湯浅吉郎とは?
その後、明治35年(1902年)にアメリカに再留学して図書館学について研究する。
明治37年(1904年)に京都府立図書館館長に就任して、新村出(京都帝大図書館館長)・今井貫一(大阪府立図書館館長)らとともに未だ整備途上であった日本の図書館制度の整備充実にも尽くした。
また、散逸の怖れがあった古文書などの蒐集や浅井忠の「二十日会」の支援事業など図書館を中心とした文化事業の振興にもあたった。
だが、大正デモクラシーに伴う読書への関心の高まりの中で、民衆が希望する図書購入が行われていない、多くの公立図書館が廃止しつつある閲覧料を徴収している、一般民衆への館外貸出を禁じているとの批判が府議会や新聞から出され、大正5年(1916年)5月3日に辞任に追い込まれることになる[1]。
また、旧約聖書の日本語訳や平曲琵琶演奏[2]の普及、詩集『十二の石塚』・評論『書画贋物語』の刊行など様々な活動において業績を残した。
- 湯浅は温厚で人と争う事は無かったが、皮肉屋の側面もあった。名古屋で開かれたある展覧会を見に行ったものの満足できる作品が無く、後日「二十日会」の会合でそのまま報告した。
たまたま会員にその展覧会に出品していた人物がおり、そこで自分の絵が売れたと反論すると、湯浅は「そこが名古屋式で皆目絵が分からんのだ」と言い返し、会場は大いに受けたという。 - 熱心なクリスチャンであったが、その一方で祇園の芸者などには「粋」な男性として人気があった。
湯浅の図書館長としての行動を批判していた大阪朝日新聞は、湯浅辞任の翌日の京都附録(地方版)で、「半月君は京都の名物男であったが惜しい事をした、泣くものは祇園あたりにもあるやなしや……」と皮肉交じりの解説を残している。
^ 皮肉にも閲覧料の廃止や館外貸出は湯浅が紹介したものであったが、一方で湯浅個人は図書館員の官僚的な思考が強い日本ではアメリカのような公共図書館の運営は無理だという考え方の持ち主であり、同時に図書館の質の維持のために会員制図書館を理想としていた。
このために、彼の図書館運営は理念と実践でブレが生じ、これが批判を強める一因になったと言われている。^ 平曲の一流・波多野流最後の検校であった藤村性禅の門人であり、半月による演奏が現在も音源として残されており、CD化もされている(「邦楽全曲集特選(7) 琵琶」(コロムビアミュージックエンタテインメント、1995年))。
半月は免許皆伝を得られるほど上達出来ずに、波多野流は1911年の藤村の死で途絶えており、同流を窺い知り得るのはこの音源のみである。
- 高梨章「半月湯浅吉郎、図書館を追われる」(日本図書館文化史研究会 編『図書館人物伝 図書館を育てた20人の功績と生涯』(2007年 日外アソシエーツ ⇒『ISBN 9784816920684』))
(出典:Wikipedia 2010/09/11 13:13 UTC 版)
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