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浪人とは?
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目次
1 江戸時代以前
2 江戸時代
3 明治以降
4 関連項目
武士が在地領主であった鎌倉時代・室町時代においては所領と職を失い浮浪する者たちを指した。
この時代は浪人になっても各地で慢性的に小規模な戦乱が頻発し、大名は戦闘要員を必要としており、新たな主家を得る機会は少なくなかった。
また、治安状況が悪かったために、浪人が徒党を組んで割拠し、野盗をしたり一揆を起こす者たちもいた。
この頃の浪人は浮浪の意味に近く、牢人の者もいたが牢人という身分語が定着するのは室町時代後期である。
戦国時代になると主従関係と身分関係が前時代より明確になり、たとえ主家が滅びて牢人となっても再仕官する機会は多くあった。
ただ、後の江戸時代よりも主従関係が緩やかであり、待遇に不満があれば主君を見限り自ら致仕して牢人となり、実力次第でよりよい待遇を求めて別の大名家に仕官する者たちもいた。
この時代は、牢人となって幾つもの大名家を渡り歩く武士が多く、中には大名にまで出世する者もいた。藤堂高虎はその生涯に10の主家に仕えている。
また、この時代は身分が未分化で武士から商人、農民になることも、その逆も容易だった。
名のある戦国大名の中にも、祖先は武士とも言えない農家、漁師や行商人、僧侶などから身を起こした者は少なくない。
ただし一代で大名にまでなるような例は非常に稀である。
その数少ない例外が豊臣秀吉・秀長兄弟であり、諸説はあるが足軽もしくは農民の生まれでありながら、ついには天下人となった。
豊臣秀吉が天下を統一して、戦乱の時代が終息すると、牢人をとりまく状況が変化した。
各大名家は多くの家臣を召抱える必要がなくなってきた。関ヶ原の戦いで東軍の徳川家康が勝利すると、西軍についた大名の多くが取り潰されるか、大幅な領地の減封を受け、これによって大量の牢人が生じた。
更に徳川幕府は旧豊臣系大名の外様大名を中心に大名廃絶政策を取り、多くの大名が世嗣断絶、幕法違反などの理由によって取り潰され、これによっても大量の牢人が生じた。
江戸時代に入ると大名家では家臣の数が過剰になり、新規の召し抱えをあまり行わなくなった。
また、儒教の影響で主従関係が固定化され、家臣が主君を見限って出奔した場合は、他の大名に「奉公構」を廻して再仕官の道を閉ざすことも行われた。
黒田家を出奔した後藤基次は「奉公構」を出されて再仕官の道を断たれ、結局大坂の役で豊臣方に参加している。
再仕官できない牢人が激増し、大坂の役が起きたときには、豊臣方に10万の牢人が寄り集まっている。
大坂の役で多数の牢人が殺されたが、その後も幕府の大名廃絶政策によって牢人は増え続け、徳川家光の晩年にはその数は50万人にも達したとされる。
平和な時代となり、再仕官の道は限られており、町人や農民になる者、または海外へ出て傭兵になる者もいた(例:山田長政)が、大部分は牢人のまま困窮の中で暮らしていた。
当初、幕府は牢人を危険視して、市中から追放や居住制限、再仕官の禁止など厳しい政策をとった。
牢人たちはますます追い詰められ、由井正雪らの幕府転覆計画(慶安の変)を引き起こすに至る。この頃より流浪する牢人や未仕官の牢人を浪人と呼ぶようになる。
これらによって幕府は従来の政策を見直し、世嗣断絶の原因となっていた末期養子の禁を緩め、大名の
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