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浅井久政とは?
浅井 久政(あざい ひさまさ、淺井 久政)は、戦国時代・安土桃山時代の武将。北近江の戦国大名・浅井氏2代目当主。下野守。浅井長政(賢政)の父。目次
1 経歴
2 近年の再評価
3 諸子
4 登場作品
5 脚注
浅井亮政の長子(庶長子の説あり)。
生母は側室尼子氏の娘馨庵(近江国の尼子氏で、出雲の尼子氏はその庶家。
生母については、諸説があり『六角佐々木氏系図略』・「浅井過去帳」に浅井千代鶴とある。
この女性は六角宗能(親泰)側室で、久政は養子であり、尼子氏は養母であるとも)。
妻は近江豪族井口経元の娘小野殿(阿古御料人)。
天文11年(1542年)に父・亮政が没したため後を継いだが、武勇に優れた父とは対照的に武勇に冴えなかった。
亮政は正室との間に生まれた海津殿(久政の異母姉)の婿として、田屋明政(田屋氏は浅井氏庶家)に家督を譲ることを望んでいたともいわれるが、亮政と側室との間に生まれた久政が家督を継ぐこととなった。
そのため、義兄・明政は久政の家督相続を承服せず、反乱をおこすなど久政の家督相続は家中に少なからぬ禍根を残す結果となった。
久政が当主となってからの浅井家は次第に六角氏の攻勢に押されてついにその配下となってしまった。
嫡男に六角義賢の一字「賢」の字を偏諱として受けさせ、「賢政」と名乗らせたりその妻に六角氏家臣平井定武の娘を娶らせるなど、六角氏に対しては徹底した従属的姿勢をとった。
このような、久政の弱腰外交に家臣たちの多くが不満をもつようになり、永禄3年(1560年)に久政の嫡男・賢政(のちの長政)が野良田の戦いで六角義賢に大勝し六角氏から独立すると、家臣たちから家督を長政に譲ることを強要され、強制的に隠居させられることとなった。
一時は竹生島に幽閉されていたほどである。
しかしこのクーデター的家督移譲には不明瞭なところが多く、久政は隠居してもなおも発言力を持ちつづけ、父以来の朝倉氏との友好関係に固執し、新興勢力の織田氏との同盟関係の構築には終始反対しつづけたとされる。
そのような発言力を持った状態で、織田氏と朝倉氏が対立を深め、両家と同盟関係にあった浅井家はどちらにつくかの決断を迫られた場面で久政は強硬に朝倉方につくべきであると主張し、長政が折れる形で信長に反旗を翻すが、数年間の抵抗の末、浅井・朝倉連合は織田氏に敗北する。
天正元年(1573年)、織田軍は一乗谷陥落後、打って返して小谷城を攻撃。
京極丸を羽柴秀吉隊に落とされ、久政の籠る小丸は長政の本丸と分断された。
羽柴勢はそのまま小丸を攻撃。
最期を悟った久政は井口越前守・脇坂久右衛門らを呼び、「今よりわしは腹を切るゆえ、その間敵勢を食い止めてくれ」と言い渡した。
彼らは羽柴勢より屋敷を死守。
文字通り討ち死にした。
久政は一族・浅井福寿庵、舞楽師の森本鶴松大夫と共に盃を傾けた後に切腹した。
これを福寿庵(惟安)が介錯し、次に福寿庵を鶴松大夫が介錯した。
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