Weblio辞書辞典>辞書・百科事典>楊彪>楊彪の2ページ目
楊彪とは?
初平元年(194年)、太尉・録尚書事となり、李傕・郭汜らが争う中、一時は殺害されかけたが何とか逃れ、献帝を奉じ長安を脱出し、洛陽まで逃れた。
洛陽への遷都が成ると尚書令とされた。
建安元年(196年)、献帝は曹操に迎えられ許に都を移した。
この時、献帝の側近集団は、董承以下楊彪も含め、曹操の献帝擁立及び許への遷都を望んでいなかったこともあって、曹操は楊彪を警戒していた。
さらに曹操が天子に拝礼した際、楊彪が色を作したので、曹操は暗殺されるのではないかと恐れた。
やがて、曹操は袁術と姻戚関係にあったことを理由に楊彪を処刑しようとした。
しかし孔融らが弁護したため、助けられた。
王沈の『魏書』によると、袁紹が楊彪や孔融を処刑するよう命令したこともあったといわれる。
ただし、『陳琳集』の檄文にあるように、それ以前に楊彪は曹操に嫌われていた。
建安4年(199年)、太常として復帰したが、建安10年(205年)に辞職。
建安11年(206年)には曹操の命令により恩沢侯が廃止されたため、父の代に得た爵位を失った。
楊彪は後漢の命運が尽きたと判断し、足が曲がらなくなったという理由で二度と参内しなくなった。
息子の楊修は曹操に仕えていたが、あるとき曹操の不興を買って処刑された。
曹操はその後楊彪に面会を求め、楊彪が痩せてしまった理由を尋ねたところ、楊彪は金日磾の明が自分にはなかったと心境を説明した。
曹操はこれを聞いて思わず態度を改めたという。
曹丕(文帝)が禅譲により魏の皇帝として即位すると、楊彪を召しだして三公の一つ太尉に任命しようとしたが、楊彪はかつて後漢の三公を務めたが、世の乱れを正すことが出来なかったことを理由にこれを断った。
「徳高き老人」として表彰された上で光禄大夫に任命され、さらに几杖を与えられるなど特権待遇を与えられた。
225年、84歳という高齢で死去した。
(出典:Wikipedia 2011/03/13 12:33 UTC 版)
ページTOP▲
楽に探せる!楽ワード
ページ(2/2)
≪前ページ