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松本清張とは?


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松本清張
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本格的な作家活動

以後作家活動に専念することになる。
1956年9月に日本文芸家協会会員。
1955年から『張込み』で推理小説を書き始め、1957年短編集『』が第10回日本探偵作家クラブ賞(現・日本推理作家協会賞)を受賞、同年から雑誌『』に『点と線』を連載する。
翌年刊行され、『眼の壁』とともにベストセラーとなった。
「清張以前」「清張以後」という言葉も出て、「清張ブーム」が起こった。
その後も執筆量は衰えず、『かげろう絵図』『黒い画集』『歪んだ複写』などを上梓。
執筆量の限界に挑んだ。
清張の多作は同時代の作家にとっても驚きであり、種々の憶測も呼んだ。
作家の平林たい子は韓国の雑誌『思想界』1962年8月号に「朝から晩まで書いているんですけど、何人かの秘書を使って資料を集めてこさせて、その資料で書くだけですからね。
松本と言えば人間ではなく「タイプライター」です」と発言した。
これに対し清張は「事務処理をする手伝いの人が一人いるのみで、事実に反する」と反論している[41]
しかしのち、書痙となり、以後口述筆記をさせ、それに加筆するという形になった。

『小説帝銀事件』

1959年、帝銀事件を題材にして『小説帝銀事件』を発表。帝銀事件は当時すでに最高裁で被告に死刑の判決が下されており、裁判は終わっていた。
それを踏まえて改めて事件を「推理」することは、裁判批判を意味した。
ただし当時は裁判批判が高まった時期であり、清張が特殊であったわけではない。松川事件に対しては、作家の広津和郎が裁判批判を書き、宇野浩二は「世にも不思議な物語」(『文藝春秋』1953年10月号掲載)を執筆、清張も広津を支援するなどの活動を続けた。
下山事件に関しては、清張は広津や南原繁東京帝大総長とともに「下山事件研究会」を結成、「推理は推理、真実の追及は別になければならない」として真相究明を訴え続けた。
1959年、『小説帝銀事件』で第16回文藝春秋読者賞
1960年代

『日本の黒い霧』

1960年、ノンフィクション『日本の黒い霧』の連載がはじまる。
『日本の黒い霧』は『文藝春秋』の1960年1月号から連載され、第二次世界大戦終結以後、1945年から1952年までの7年間に日本で起こった10の諸事件とその背景が論じられた。
同書は連載中から大きな反響を呼び、「黒い霧」は流行語になった。
『日本の黒い霧』は、すでに連載中から様々に議論を引き起こした。大岡昇平と論争を行った(後述)。
この後清張は、実際の歴史を題材にするにあたって、小説の形式をとったもの(『小説東京帝国大学』など)、評論として書いたもの(『北一輝論』など)、小説ではあるが作中に論文を組み込んでいるもの、等々、様々なスタイルでの記述を試みていく。
清張によると、「最初、これ(『日本の黒い霧』)を発表するとき、私は自分が小説家であるという立場を考え、「小説」として書くつもりであった」([42]
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