曹洪の解説頁です。 Weblio辞書辞典>辞書・百科事典>曹洪>曹洪の2ページ目

曹洪とは?




200年袁紹との官渡の戦いでは兵糧などの後方補給などで曹操を常に補佐した。徐晃と共に㶏[5]彊の賊の祝臂を攻撃し、これを破った(「徐晃伝」)。
曹操が烏巣を攻撃した時にその留守を懸命に守り、袁紹の武将張郃高覧らの攻撃を防御した。
張郃らが降伏を申し入れてくるとその意図を疑ったが、荀攸の助言によりこれを受け入れた(「荀攸伝」)。
曹操が荊州劉表を討って、西平に進むと曹洪は別軍を率い、舞陽・陰葉・堵陽・博望の各地で劉表の部将を破った[6]
この功により、厲鋒将軍に昇進、国明亭侯に封じられた。
続いて都護将軍に任命された。
曹洪は都護になると、阮瑀(阮籍の父)を書記に迎えようと試みたが、阮瑀には辞退されている(「王粲伝」附「阮瑀伝」)。
曹操の太子には曹丕がなっていた。
ある時、曹丕は曹洪から100匹の絹を借りようとしたが、拒絶されたという(『魏略』)。
217年冬10月、劉備の部下張飛馬超呉蘭らが下弁に攻め込んでくると、曹操は曹洪に命じてこれを防がせた。
曹洪のために曹操は参軍として族子曹休辛毗を付け、さらに曹操は曹休に対して、実質的な指揮官は曹休だといい含めた(「辛毗伝」・「曹休伝」)。
他に張既楊阜らを率いていた(「張既伝」・「楊阜伝」)。
曹洪は、下弁の呉蘭と固山の張飛のどちらを討つかで迷ったが、曹休の進言に従い呉蘭を打ち破り、張飛を敗走させた[7]
曹洪は大宴会を催し、薄着の歌姫に舞楽を行わせた。
しかし楊阜は大勢の席上で女性の肉体を剥き出しにするのは不道徳だとして、曹洪を責めた。
すると曹洪はすぐにこの舞楽を止めさせた(「楊阜伝」)。
曹操は曹洪の財貨と女色を好む性格を熟知しており、前漢の高祖(劉邦)に比して、曹洪とその参謀であった辛毗、さらに曹休に向かって慎重に警告している(「辛毗伝」)。
220年、曹丕(文帝)が即位すると衛将軍となった。
その後、驃騎将軍に昇進し野王侯に封じられ、領邑1000戸を加増され計2100戸となり、特進の待遇を受ける事になった。
暫くすると、都陽侯に国替えされた。
ある時、文帝が友人の呉質のために宴席を設けた。
呉質を労うために宴席の参加者は、特進以上の待遇の人物が呼び集められ、曹洪もそれに参加した。
宴席で呉質は、曹真が太っている事をからかった。
曹真は怒ったが、曹洪は王忠と共に曹真をさらに冷やかしたという(「王粲伝」が引く『呉質別伝』)。
曹洪は資産家であったが吝嗇であった。
また、その食客や縁者には奢り昂ぶり不法を働く者も多くいた。
文帝は、以前に借財を拒絶した経緯から曹洪を恨んでいたため、曹洪の食客が罪を犯した時、曹洪をそれに連座させて死罪に処そうとした。
群臣達は曹洪の赦免を求めたが、救う事ができなかった。
曹真もこれを諌めたが果たせなかった(『魏略』)。
結局は卞太后(曹丕の生母)の取り成しによってようやく死罪は免れたが、所領と爵位を削られた。
この処置に、曹洪の功績を知る多くの人達は釈然としない思いであったという。
財産も一時没収されたが、卞太后の計らいで戻されている(『魏略』)。
曹洪は死罪を免れた事を喜び、謙った内容の上書をして陳謝したという(『魏略』)。
226年、文帝が逝去し太子の曹叡(明帝)が即位すると、曹洪は後将軍に任命され、改めて楽城侯に封じられ、1000戸の領邑を与えられた。
特進を加えられ、再び驃騎将軍に任命された。
明帝の時代、乳母の当が洛陽において法に違反し、大理正の司馬芝に処刑されそうになった時、卞太皇太后がこれを救おうとしたが、司馬芝は処罰を覚悟で法を執行し、当は処刑されてしまった(「司馬芝伝」)。
楽に探せる!楽ワード

ページ(2/3)
≪前ページ | 次ページ

ページTOP▲
「曹洪」の1ページ目
Weblio辞書辞典
「曹洪」の記述に関する著作権




ランダム表示|登録辞書一覧
Weblio辞書辞典

お気に入りに登録
友達にも教える
「曹洪」の記述に関するお問合せ

Weblio辞書辞典|ヘルプ|お問合せ
©2012Weblio