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新羅とは?
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新羅
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有名な新羅商人に張宝高がいる。
780年に武烈王の王統が絶えると王位継承の争いが激しくなり、王位簒奪や王都内での反乱が頻繁に発生する様になった。
また骨品制により、新羅王族のみが上位官僚を占めるようになり官僚制度は行き詰まりを見せていた。
災害や飢饉、また相次ぐ反乱や内戦、また渤海(698年 - 926年)との対立などもあり、新羅は滅亡する。
この780年代から新羅滅亡までの期間(宣徳王から敬順王まで)を下代と呼ぶ[53]。 恵恭王の時代
第36代の王恵恭王の在位中に、律令体制の推進派と旧来の貴族連合的体制への復帰派との間の対立は顕在化し、反乱が多数発生する[54]。
・768年7月 : 一吉飡(7等官)大恭・阿飡(6等官)大廉の兄弟の反乱。
貴族連合体制復活派の反乱とみられる。
王都を33日間包囲するが、王の軍隊が平定した。
・770年8月 : 大阿飡(5等官)金融の反乱。
金融は金庾信の後裔であり、中央貴族に対抗する地方勢力を代表する。
律令体制推進派と見られる。
・775年6月 : 伊飡の金隠居の反乱。
元侍中の金隠居は金融の反乱の後に退官しており、後に反乱を起こした。
貴族連合体制復活派の反乱と見られる。
・775年8月 : 伊飡の廉相、侍中(現職)の正門が反乱を企てたことが発覚して誅滅された。
正門は金隠居の退官の後に侍中に就任しており、律令推進派の反乱と見られる[55]。
こうした政治的対立の中で776年正月には新羅政府は教書を出し、律令体制を強固に推進した景徳王が唐風に改名した百官の名称を、旧来のものに戻した。
貴族連合体制派への譲歩であったと見られるが、律令体制推進の政策を廃止しようとするものではなく、同年3月には倉部(徴税)の史(3次官)を8名増員している。
名目的には律令体制の推進を控えながらも、国家財政や人民支配の強化という点においては貴族層・官僚層の間には共通の意識が持たれていたことの現われと考えられている[56]。
780年2月、 伊飡の志貞が反乱を起こし宮中を包囲する。
同年4月、上大等の金良相(後の宣徳王)が伊飡の金敬信(後の元聖王)とともに挙兵し、志貞を滅ぼす。
この戦乱の中で恵恭王も王妃ともに殺害された。 宣徳王
次の第37代新羅王宣徳王は、782年閏正月、唐に対して朝貢を行なった。
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