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新羅とは?


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736年(天平8年)には遣新羅大使の阿倍継麻呂が新羅で外交使節としての礼遇を受けられなかったらしく、朝廷は伊勢神宮など諸社に新羅の無礼を報告し調伏のための奉幣をしており、以後しばらくは新羅使を大宰府に止めて帰国させ、入京を許さなかった[41]
なお、阿倍継麻呂は新羅からの帰国途中に病死し、残された遣新羅使の帰国後、平城京では天然痘とみられる疫病が流行った。
当時、この疫病が新羅から持ち込まれたと信じられた[42][43]
金泰廉による日本への朝貢
752年天平勝宝4年)、新羅王子金泰廉ら700余名の新羅使が来日し、日本へ朝貢した[41]
この使節団は、奈良の大仏の塗金用に大量の金を持ち込んだと推定されている[41]
この際は王子による朝貢であり外交的には日本に服属した形となった。
朝貢の形式をとった意図は明らかではないが、唐・渤海との関係を含む国際情勢を考慮し極度に緊張していた両国関係の緊張緩和を図ったという側面と交易による実利重視という側面があると見られている[41]
金泰廉は実際の王子ではないとする研究[44]が一部で出されているが、王子の朝貢を演出することによってより積極的な通商活動を意図していた説には確証は無い[45]
長安での席次争い
753年(天平勝宝5年)には長安の大明宮で開催された[46]唐の朝賀で遣唐使大伴古麻呂が新羅の使者と席次を争い意を通すという事件が起こる[41]
この際唐は日本側の新羅が倭の従属国であった事実を受け入れ新羅を下位においた。
この年の遣新羅大使は、新羅で景徳王に謁することが出来なかった[41][47]
藤原仲麻呂の新羅征討計画
天平宝字2年(758年)、安禄山の乱が起きたとの報が日本にもたらされ、藤原仲麻呂大宰府をはじめ諸国の防備を厳にすることを命じる。
天平宝字3年(759年新羅が日本の使節に無礼をはたらいたとして、仲麻呂は新羅征伐の準備をはじめさせた。
軍船394隻、兵士4万700人を動員する本格的な遠征計画が立てられるが、この遠征は後の孝謙上皇と仲麻呂との不和により実行されずに終わる[48][49]
藤原仲麻呂」および「新羅征討計画」も参照
8世紀の終わりに新羅の国内が混乱すると、再び日本に慇懃な態度をとるようになり[46]、宝亀10年(779年)、新羅は日本への服属を象徴する御調(みつき)を携え使者を派遣した。
この調は、日本が新羅に要求し続けた念願の品であった[46]
また、新羅の混乱により多数の難民が日本列島へ亡命し、大量に帰化を申請する事態が発生するが、日本側は、「蛮国」の人民が天皇の徳を慕って帰化を願うことは、日本における中華思想にかなっていたため、帰化を許可した[46]
しかし、翌780年に正規の遣新羅使は停止され、以後は遣唐使の安否を問い合わせる使者が数度送られたのみとなった[50]
しかし民間レベル(主に交易)での交流は続けられており、唐・日本・新羅商人により、日本の文物を唐・新羅へ、唐・新羅の文物を日本へ、と運んで交易に励んだ[51][52]
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