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新羅とは?
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新羅
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降伏した百済・高句麗の王族、貴族を格下げした上で官位制度の中に組み入れ、律令制を取り入れながら政治形態を変化させていった。
官吏の養成機関として国学という教育機関が置かれた。
また、州・郡・県を基本と為す郡県制を基本とした地方支配体制が整えられた。
旧新羅・伽耶領に3州、旧百済領に3州、旧高句麗領に3州の9つの州が置かれ、これらと副都五京によって地域支配が行われた。
唐の律令制度を取り入れながらも、位階などの名称は旧称のままで残されたりもしたが、8世紀半ばには唐風に改められている。
唐の影響は非常に大きく、この頃、先祖伝来の姓や従来的な名もまた、全て中華風に改められている。
745年頃から750年代後半にかけて新羅で飢饉や疫病が発生し、社会が疲弊していた[32]。
755年には新羅王のもとへ、飢えのため、自分の股の肉を切り取って父親に食べさせた男の話が伝わるほどだった[32]。
このときに、日本の九州北部をはじめ、日本へ亡命し、帰化した新羅の民が多数いた[32]。
しかし、その移民の数が多いため、天平宝字3年(759年)9月、天皇は太宰府に、新羅からの帰化人に対して、帰国したい者があれば食料等を与えたうえで帰国させよとする勅を出した[32]。
翌年には、帰国を希望しなかった新羅人13人を武蔵国に送還した[32]。
また、飢饉や疫病によって、後述する新羅の賊が発生したともされる[32]。 日本との関係
「日羅関係」も参照
668年以降、日本は遣新羅使を派遣。672年の壬申の乱で勝利した大海人皇子(後の天武天皇)は、親新羅政策をとった。
また、次代の持統天皇(在位690年〜697年)も亡夫の天武天皇の外交方針を後継し、同様に親新羅政策をとったが、新羅に対しては対等の関係を認めず、新羅が日本へ朝貢するという関係を強いたが、新羅は唐との対抗関係からその条件をのんで日本への朝貢関係をとった[33]。
持統天皇元年(687年)、日本の朝廷は帰化した新羅人14人を下野国に[34]、新羅の僧侶及び百姓の男女22人を武蔵国に[35]土地と食料を給付し、生活が出来るようにする。
持統天皇3年(689年)にも投化した新羅人を下毛野に移し[36]、翌持統天皇4年(690年)にも帰化した新羅人を武蔵国や[37]、下毛野国に居住させる[38]。霊亀元年(715年)には尾張国人の席田君邇近及び新羅人74人が美濃国を本貫地とし、席田郡に移される[39]、天平5年(733年)[40]。
「東国#開発」を参照- 「王城国」改称問題
しかし、新羅が国力を高めて、735年(天平7年)日本へ入京した新羅使が、国号を「王城国」と改称したと告知したため、日本の朝廷は無断で国号を改称したことを責め、使者を追い返した[41]。
両国関係は、朝鮮半島を統一し国家意識を高め、日本との対等な関係を求めた新羅に対して、日本があくまで従属国扱いしたことにより悪化した。
なお、当時、渤海が成立し、日本へ遣日本使を派遣していることも背景にあるとされる[41]。
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