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教育勅語とは?
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また、明治天皇が以前から道徳教育に大きな関心を寄せていたこともあり、榎本武揚・文部大臣に対して道徳教育の基本方針を立てるよう命じた。
ところが、榎本はこれを推進しなかったため更迭され、後任の文部大臣として山県は腹心の芳川顕正を推薦した。
これ対して、明治天皇は難色を示したが、山県が自ら芳川を指導することを条件に天皇を説得、了承させた。
文部大臣に就任した芳川は、女子高等師範学校学長の中村正直に、道徳教育に関する勅語の原案を起草させた。
この中村原案について、山県が井上毅・内閣法制局長官に示して意見を求めたところ、井上は中村原案の宗教色・哲学色を理由に猛反対した。
山県は、政府の知恵袋とされていた井上の意見を重んじ、中村に代えて井上に起草を依頼した。
井上は、中村原案を全く破棄し、「立憲主義に従えば君主は国民の良心の自由に干渉しない」ことを前提として、宗教色を排することを企図して原案を作成した。
井上は自身の原案を提出した後、一度は教育勅語構想そのものに反対したが、山県の教育勅語制定の意思が変わらないことを知り、自ら教育勅語起草に関わるようになった。
この井上原案の段階で、後の教育勅語の内容はほぼ固まっている。
一方、天皇側近の儒学者である元田永孚は、以前から儒教に基づく道徳教育の必要性を明治天皇に進言しており、1879年(明治12年)には儒教色の色濃い教学聖旨を起草して、政府幹部に勅語の形で示していた[2]。
元田は、新たに道徳教育に関する勅語を起草するに際しても、儒教に基づく独自の案を作成していたが、井上原案に接するとこれに同調した。
井上は元田に相談しながら語句や構成を練り、最終案を完成した。
1890年(明治23年)10月30日に発表された「教育ニ関スル勅語」は、国務に関わる法令・文書ではなく、天皇自身の言葉として扱われたため、天皇自身の署名だけが記され、国務大臣の署名は副署されなかった。
井上毅は明治天皇が直接下賜する形式を主張したが容れられず、文部大臣を介して下賜する形がとられた。
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