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排日移民法とは?
1913年カリフォルニア州ではいわゆる外国人土地法が成立、移民・帰化法でいうところの「帰化不能外国人」の土地所有が禁止された。
法人組織を通じて土地を購入する、あるいは米国で誕生した自分の子供(前述の如く米国市民権を得ている)に土地を所有させ、自らはその後見人となり更に子供から土地を賃借する、など様々の脱法的土地利用方法が駆使されたが、1921年の土地法改正により、これらの法的な抜け道はすべて否定されるに至った。
なお、米国全土でみると移民排外主義は白人中のいわゆるWASPを中心とした層に支持者が多かったが、西海岸諸州においては、東部から中西部ではむしろ被差別の対象であった南欧・東欧出身者(特にイタリア系貧困労働者)が排日運動において積極的役割を果たしたことが特徴的であった。
さまざまな圧迫の中で、1920年には米国全土で約12万人、カリフォルニア州で7万人(州総人口の2%)の日系人が生活していた。
日本政府としては、1918年のパリ講和会議で人種差別撤廃案を提案し、過半数の国々から賛成を得たがウィルソン大統領の反対により可決しなかった。
以上のように、米国における日本人(日系人)の移民活動は紳士協定に基づいた日本の自主規制と州レベルでの排斥活動の間で微妙なバランスを保ちつつ進行していたが、1924年にはいわゆる排日移民法が米国連邦議会で審議され成立することで大転換を迎える。
先立つこと1921年、米国連邦議会は移民割当法 (Quota Immigration Act) と通称される法案を成立させていた。
同法では、1910年国勢調査における各国別生まれの居住者数を算出、以後の移民はその割合に比例した数でのみ認められるとしていた。
しかし、1910年という基準年次が南欧・東欧系に有利(比率が高い)点で不満が高まり、基準年次を南欧・東欧系移民が未だ少数だった1890年に後退させる改正案が急浮上した。1924年の移民・帰化法改正はこのような背景でまず下院で提起され、そこには排日といった要素はもともと含まれていなかった。
仮に1890年基準年次をとった場合日本の移民割当数は年間146人となるはずであった。
ところが反東洋系色の強いカリフォルニア州選出下院議員の手によって「帰化不能外国人の移民全面禁止」を定める第13条C項が追加される。
「帰化不能外国人種」でありながらこの当時移民を行っていたのは大部分日本人だったため、この条項が日本人をターゲットにするものであるのは疑いようもなかった。
下院で同法案は可決され審議は上院に移った。
この時点では、より地域利害に影響されにくい上院では同法案は否決、あるいは大幅に修正されるであろう、その結果日本は理想的には現在の紳士協定方式の維持、悪くとも割当移民方式の対象国となるのではないか、との観測を米連邦政府国務省、在ワシントン日本大使館ともに抱いていた。
しかし上院では、日本からの移民流入が米連邦政府のコントロール下になく、内容の曖昧な紳士協定に基づいて日本政府が行う自主規制に依拠している点が外交主権との観点で問題とされた。
米国務長官ヒューズと駐米大使埴原正直は、紳士協定の内容とその運用を上院に対して明らかにすることが、排日的条項阻止のために不可欠であるとの判断で一致した。
こうして、埴原がヒューズに書簡を送付、ヒューズがそれに意見書を添付して上院に回付する、という手はずが整った。
ところが、埴原の文面中「若しこの特殊条項を含む法律にして成立を見むか、両国間の幸福にして相互に有利なる関係に対し重大なる結果を誘致すべ(し)」(訳文は外務省による)の「重大な結果 (grave consequences)」の箇所が日本政府による対米恫喝(「覆面の威嚇」vailed threat)である、とする批判が排日推進派の議員により上院でなされ、法案には中立的立場をとると考えられていた上院議員まで含めた雪崩現象を呼んだ。
「現存の紳士協定を尊重すべし」との再修正案すらも76対2の大差で否決された。クーリッジ大統領は「この法案は特に日本人に対する排斥をはらんでいるものであり、それについて遺憾に思う」という声明を出して否定的な立場をとったが、議会の排日推進派による圧力に屈する形で拒否権発動を断念、日系人は「帰化不能外国人」の一員として移民・帰化を完全否定されることになった。
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