Weblio辞書辞典>辞書・百科事典>張邈>張邈の2ページ目
張邈とは?
しかし、荀彧・程昱・夏侯惇・棗祗らが守る3城を落とせず、曹操の勢力にとどめを刺す事は出来なかった。
その後、飢饉が発生し、両者の争いは一時的に中断された。
翌年(195年)には、勢いを盛り返した曹操に敗れ、兗州から撤退。
呂布や陳宮らは、陶謙から徐州を譲り受けていた劉備を頼って落ち延びた。
張邈自身は、陳留に居た弟の張超らと分断されていた。
張邈は陳留の一族を救出するため、袁術に援軍を求めに向かう途上、部下の裏切りに遭い殺された。
前後して陳留は陥落し、張超など張邈の遺族は、曹操の追及を逃れて雍丘に移った。
この頃既に曹操は、長安の天子から正式に兗州の牧に任命され(武帝紀)、張邈たちは賊の立場に追い込まれていた。
さらに翌年(建安元年(196年))、雍丘は曹操軍の攻撃によって陥落。
張超は焼身自殺し、張邈の三族(父母、兄弟、実子と養子)も、曹操によって皆殺しの刑に処せられた。
小説『三国志演義』でも、若干の脚色を除いては、ほぼ同様の描写がなされている。
^ 袁紹とは、許攸、何顒、伍瓊達と共に「奔走の友」と呼ばれる契りを結び(「袁紹伝」)、曹操とは、互いが死んだ時に家族の面倒を見る事を約束するほどに仲が好かった。
現に193年に曹操が徐州討伐に向かったときに、家族に「わしに万が一もしものことがあれば、孟卓(張邈)を頼れ」と述べている。^ 「臧洪伝」によると、挙兵後に酸棗や弟、孔伷など一部の諸侯と共に会盟をしている。^ 当時董卓に仕えていた鄭泰という人物によると、張邈は勉強ばかりして書斎に閉じこもって、座敷を覗こうともしない人物だという(鄭渾伝が引く『漢紀』、『後漢書』鄭泰伝)。
(出典:Wikipedia 2011/11/03 07:20 UTC 版)
ページTOP▲
注目の情報
ページ(2/2)
≪前ページ