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張勲_(後漢)とは?
ウィキペディア目次へ張 勲(ちょう くん、生没年不詳)は、中国の後漢時代末期の武将。目次
1 正史の事跡
└1.1 曹操の部下との誤解について
2 物語中の張勲
3 参考文献
| 姓名 | 張勲 |
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| 時代 | 後漢時代 |
|---|
| 生没年 | 〔不詳〕 |
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| 字・別号 | 〔不詳〕 |
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| 出身地 | 〔不詳〕 |
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| 職官 | 大将軍 |
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| 爵位・号等 | - |
|---|
| 陣営・所属等 | 袁術 |
|---|
| 家族・一族 | 〔不詳〕 |
|---|
後漢の群雄の一人である袁術の部将。
『三国志』呉書孫策伝によると、一時期孫策が袁術に身を寄せていたが、張勲はまだ20歳前後の孫策を高く評価し、心ひかれていたという。
初平4年(193年)3月、袁術が揚州刺史の陳温を殺害(陳温については病死とする記録あり)、陳瑀を追放して揚州に拠点を移すと、橋蕤と共に大将軍に任じられたとされる。建安2年(197年)春、袁術が皇帝を僭称した際にも、これに従った。
袁術の皇帝僭称後まもなく、張勲は袁術の命令で橋蕤と共に徐州の呂布を攻撃する。
しかし、陳珪の離間策により友軍の楊奉・韓暹に裏切られ、橋蕤を生け捕られるという大敗を喫した。
同年9月、張勲は袁術に従って陳国に侵攻し、陳王劉寵を滅ぼした。
しかし、曹操が自ら袁術討伐に来ると、袁術は橋蕤ら諸将をその場に留まらせ、自分だけ淮南へ逃げ帰った。
『後漢書』袁術伝によると、張勲も、やはり橋蕤らと共に陳国に残留したとされる。
いずれにしても、橋蕤らは曹操軍を迎撃して尽く討ち取られ、張勲だけは何とか袁術の下に逃げ帰った。
建安4年(199年)6月、袁術が没落して死亡した後、張勲は、長史楊弘らとともに以前仲のよかった孫策の下に逃れようとした。
しかし、その道中で、袁術の元部下であった廬江太守劉勲に攻撃されて捕らえられた。
その後の彼についての記述は『三国志』にも『後漢書』にも残されていない。
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