Weblio辞書辞典>辞書・百科事典>山吉新八郎>山吉新八郎の1ページ目
山吉新八郎とは?
山吉 盛侍(やまよし もりひと、寛文11年6月8日(1671年7月24日) - 宝暦3年7月28日(1753年8月26日))は、江戸時代前期の武士。上杉氏の家臣。
通称は新八郎(しんぱちろう)。
これを略して新八(しんぱち)と記している書も多い。
寛文11年(1671年)、米沢藩上杉家の物頭・山吉七郎左衛門盛俊(50石)の次男として生まれる。
母は山田九右衛門盛政の娘。山吉家は戦国時代には越後三条城主として上杉謙信に仕えた家柄であるが、盛侍の祖父は米沢藩士深澤家からの養子であり、その養父・山吉源左衛門盛親も山吉家の本流(山吉豊守・山吉景長らの系統)に近い人物ではないようである(『上杉家御年譜』所収の御家中諸士略系譜より)。天和4年(1684年)に父が死去すると、家督は長兄の盛富(権之丞)が継いだ。
元禄5年(1692年)8月29日、上杉綱憲の次男で吉良家に養子に入っていた吉良義周付きの小姓を命じられ、9月11日に江戸吉良邸へ入り、吉良家では30石5人扶持を与えられている。元禄8年(1695年)6月23日には喜連川家の騒動を取り静めるために吉良家より派遣され、功績があった。
上杉家家臣がまとめた『大河内文書』によれば、元禄15年(1702年)12月の赤穂浪士による吉良邸討ち入り時に最も活躍した吉良家臣だという。
討ち入り時に長屋から飛び出ると、いきなり浪士が槍を構えていたので部屋に戻り、脇差をとって戦闘に参加。
3人を相手に戦い、1人(近松行重であろう)を池に叩き落し、また1人を縁側に切り伏せたが、後ろから槍でつかれ、別の1人に鬢先より口脇まで斬られ一度倒れた。
しばらくして再起し、義周のもとへ走るがいないので、奥を探そうとすると、2人の浪士と出会い再び斬られて倒れるも、盛侍は死なず一命を取り留めた。
なお、『忠臣蔵』のドラマなどでは清水一学や小林平八郎が活躍して描かれることが多い。
また、顔に大きな傷を負ったため、傷を隠すため髭を蓄えることを特別に許されていたともいわれている。
楽に探せる!楽ワード
ページ(1/2)
次ページ≫