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小松清廉とは?
長崎で西洋水雷などを研究した後の文久元年(1861年)、島津久光に才能を見出されて側近となり、大久保利通と共に藩政改革に取り組んだ。
文久2年(1862年)には久光による上洛に随行し、帰国後は家老職に就任した。薩英戦争では、研究した水雷を鹿児島湾に配置するなど尽力する。
戦後は集成館を再興して特に蒸気船機械鉄工所の設置に尽力する一方で、京都にあって主に朝廷や幕府、諸藩との連絡・交渉役を務め、参与会議等にも陪席した。
他方で御軍役掛や御勝手掛、蒸気船掛、御改革御内用掛、琉球産物方掛、唐物取締掛などを兼務して藩政をリードし、大久保や町田久成とともに洋学校開成所を設置した。禁門の変では、幕府の出兵要請に対して消極的な態度を示したが、勅命が下されるや薩摩藩兵を率いて幕府側の勝利に貢献した。
戦後、長州藩から奪取した兵糧米を戦災で苦しんだ京都の人々に配った。
第一次長州征討では長州藩の謝罪降伏に尽力している。
在京中は土佐藩脱藩浪士の坂本龍馬と昵懇(じっこん)となった。
亀山社中(のちの海援隊)設立を援助したり、坂本の妻お龍の世話をしている。
長州の井上馨と伊藤博文を長崎の薩摩藩邸にかくまってグラバーと引き合わせ、その後、鹿児島へ井上を伴って薩長同盟の交渉を行った。
尚、薩長同盟における密約や桂小五郎が滞在したのも、京都における清廉の屋敷であったと伝えられる。
イギリスと薩摩の友好に尽力し、五代友厚らを密かにイギリスへ留学させた。
また英国公使ハリー・パークスを薩摩に招き、島津久光と引き合わせた。
兵庫が開港されると、大和交易コンパニーという株式会社を設立して貿易拡大にも努めた。
第二次長州征討には反対し、慶応3年(1867年)の薩土盟約や四侯会議など、諸藩との交渉に関与した。討幕の密勅では請書に、西郷隆盛・大久保利通とともに署名している。大政奉還発表の際は藩代表として徳川慶喜に将軍辞職を献策し、摂政二条斉敬に大政奉還の上奏を受理するよう迫った。
西郷・大久保とともに薩摩に戻って藩主島津忠義の率兵上洛を主張する。
上洛の随行が命じられるも、病によりこれを断念している。
明治2年(1869年)9月、明治維新の功により賞典禄1000石が授けられる。
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