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小松千賀とは?



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小松 近(こまつ ちか、文政11年7月3日1828年8月13日) - 明治17年(1884年)は、幕末薩摩藩家老である小松清廉(帯刀)の妻。
吉利郷領主で家格一所持の同藩士小松清穆の四女。
母は島津久達の長女。
小松清緝(甥の町田実種で小松家に養子となって改名した)の養母。小松清直の母。
名は千賀ともいう。
生涯

安政2年(1855年)小松家当主である実兄清猷が没したので、安政3年(1856年)1月に肝付兼善の三男である尚五郎は清猷の跡目養子となった。
これが小松清廉こと帯刀である。
28歳の近は、同月に宮之原通哲の養女となった上で、21歳の帯刀の妻となる。
帯刀より年上であった(原口泉説。
「近世禰寝文書」も7歳年上とするが、3歳年上だったという説もある)。
結婚3ヶ月の安政3年(1856年)4月に当時としては非常に珍しく新婚旅行をし、霧島市栄之尾温泉に2週間滞在した記録がある。
これには近の父も湯治のため同行していた。
ちなみに、日本初の新婚旅行を行ったとされる坂本龍馬が実際に旅行に出かけたのは寺田屋事件直後の慶応2年(1866年)であり、実際には近、帯刀のほうが10年早く新婚旅行を行っていたことになる。
慶応2年(1866年)1月15日に藩主茂久の命により、帯刀が近の姉の子で甥・町田久成実弟の町田申四郎実種を養子としたので養母となり、実種は小松清緝と改名した。
しかし父の清穆や兄の清猷と同じく帯刀にも妾がおり、清緝を養子にする前年の慶応元年(1865年)に妾・との間に庶子清直が生まれている。
明治3年(1870年)に帯刀が大阪で没する。
帯刀の遺言で、帯刀拝領の1000石のうち800石は庶子の清直に与えられ、近は清直を引き取って養育した。
また近自身は100石を一代限りで受け取り、残りの100石は養子の小松清緝が受け取ることになった。
養子の小松清緝は明治3年10月に一旦家督相続するものの、明治5年(1872年)9月25日に家督を清直に譲った。
これにより、近は公式に清直の母となり「昭和新修華族家系大成」などでは近を清直の実母としている。
また近は、明治7年(1874年)に26歳で亡くなったの墓を、帯刀の眠る鹿児島の小松家歴代墓所内に作った。
明治17年(1884年)に鹿児島にて死去。
享年56。
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