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守護とは?




当時の守護人は、在庁官人らを指揮して国内の治安維持・民政にあたり、兵粮徴発や兵士動員などを任務としていたが、1185年文治1)に平氏政権が滅亡すると、朝廷との円滑な関係を構築するため、頼朝政権は独自に設置した国守護人を一旦廃止することとした。
同年11月、源義経源行家の追討を目的として、頼朝の義父である北条時政が上京し、後白河側と交渉した結果、行家・義経追討のため、諸国に惣追捕使(そうついぶし)・国地頭(くにじとう)を設置することが勅許された。
頼朝政権=鎌倉幕府には、荘園国衙領の田1段から兵粮米5升を徴収する権利と、国衙の在庁官人を指揮する権利が認められ、これを執行する職として惣追捕使・国地頭が置かれたのである。
これにより鎌倉期の守護・地頭制度が本格的に始まることとなった。
諸国ごとに設置する職を守護、荘園・国衙領に設置する職を地頭として区別され始めたのは、1190年前後とされている。
だが、当初の頼朝政権の実質支配権が及んだ地域は日本のほぼ東側半分に限定されていたと考えられており、畿内以西の地域では後鳥羽天皇を中心とした朝廷や寺社の抵抗が根強く、後鳥羽天皇(退位後は院政を行う)の命令によって守護職の廃止が命じられたり、天皇のお気に入りであった信濃源氏の大内惟義平賀朝雅の実兄)が畿内周辺7ヶ国の守護に補任されるなどの干渉政策が行われ続けた。
こうした干渉を排除出来るようになるのは、承久の乱以後のことである。
その後、守護の職務内容が次第に明確化されていき、1232年(貞永1)に制定された御成敗式目において、守護の職掌は、軍事・警察的な職務である大犯三ヶ条の検断(御家人の義務である鎌倉京都での大番役の催促、謀反人の捜索逮捕、殺害人の捜索逮捕)と大番役の指揮監督に限定され、国司の職権である行政への関与や国衙領の支配を禁じられた。
しかし、守護が国内の地頭や在庁官人を被官(家臣)にしようとする動き(被官化)は存在しており、こうした守護による在地武士の被官化は、次の室町時代に一層進展していくこととなる。
鎌倉中期以降は、北条氏一門による守護職の独占化が進んだ。
これは、北条時頼の頃から北条本家(得宗)による政治の専制化、すなわち得宗専制が確立していったことに伴うもので、北条一門の守護国は、鎌倉初期の1200年頃に2国(他氏36国、守護不設置4国[1])、1250年頃に17国(他氏24国、不設置5国[2])、1285年頃に33国(他氏18国、不設置5国[3])、鎌倉最末期の1333年には38国(他氏15国、不設置5国[4])と鎌倉中期を境に一気に増加していた。
こうした事態は、他の御家人らの不満を潜在化させることとなり、鎌倉幕府滅亡の遠因となったと考えられている。
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