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大坂相撲とは?
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ウィキペディア目次へ大坂相撲(おおさかずもう、大阪相撲)は、江戸時代から大正の末まで存在した相撲の興行組織。目次
1 歴史
├1.1 江戸時代
├1.2 明治時代
├1.3 大正時代
├1.4 解散へ
└1.5 大阪相撲の名残
2 関連項目
3 注
4 外部リンク
江戸時代初期、相撲興行は観客同士の暴力沙汰が絶えず禁止状態が続き、最初は寺社への寄進名目の勧進相撲しか許可されなかった。
寺社への寄進を目的としない興行的な勧進相撲は大坂の堀江で元禄15年(1702年)に解禁され、以後力士らが勧進元となり全国の力士を大坂へ招いて試合を行うようになった。
公の許可で相撲興行ができることと大坂商人の後援とを背景に、18世紀後半までは江戸相撲(のちの東京相撲)をしのぐ隆盛を誇った。
しかし、寛政年間に江戸相撲が谷風、雷電らの活躍で盛り返すと、参勤交代制度で江戸詰めを強いられる諸大名が抱え力士を江戸相撲に出場させることを好む様になり、徐々に相撲の本場の座を江戸に奪われることになった。
東西の力士の往来はかなり自由で、例えば谷風の好敵手で彼とともに実質最初の横綱になった小野川も、大坂で本場所をつとめている。
それもあって当初は力量の差は東西でさほどでもなかったが、やがて有力力士の流出によって、幕末の頃には江戸相撲に大きく水をあけられる形になった。
文久3年(1863年)6月3日_(旧暦)に大坂北新地で壬生浪士組(後の新選組)と死傷事件を起こしたのは大坂相撲で、中頭の熊川熊次郎(肥後出身)が死亡し多数の負傷者をだしたが、和解し手打ちとして壬生浪士組と京都での相撲興行では壬生浪士組と親しい京都相撲、大坂相撲が共同でおこなわれた[1]。
明治には、大阪相撲協会ができた。
この頃には、大阪で大関だった初代梅ヶ谷(のち横綱)が、東京相撲に移籍した際、本中から取り進むことを余儀なくされるほど、東西の格差は広がっていた。
ただ、このケースは例外で、一般的には、東京と大阪との移動については、実力相応のところに付け出されるのが普通である。
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