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夏目鏡子とは?


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病気なら治る甲斐もあるのですから、別れるつもりはありません」と、言って頑として受け入れなかったという。
漱石の死後、鏡子が子供達の前で失言し、それを子供達にからかわれると、「お前達はそう言って、私のことを馬鹿にするけれど、お父様(漱石)が生きておられた時は、優しく私の間違いを直してくれたものだ」と、亡夫・漱石を懐かしむことがしばしばだった。
1928年5月に熊本へ鏡子と同道した娘・筆子の夫、松岡譲が漱石の第五高等学校教員時代の同僚教授から聞いた話では、鏡子は熊本にきて3年目に慣れない環境と初子の流産のためヒステリー症が激しくなり藤崎宮近くの白川井川淵に投身を図り網打ちの猟師に助けられた(警察や新聞には伏せたという)こともあり、しばらく就寝の際漱石は鏡子と手首に糸をつないでいたという。
漱石が専業の小説家となり、彼を慕う若手の文学者や、かつての教え子達が毎週木曜に夏目家に集ういわゆる「木曜会」が開かれるようになると、鏡子は彼等の母親代わりとして物心両面から面倒を見ることもしばしばあった。
1963年4月18日、大田区上池上町にある自宅で心のう症候群により死去。
85歳没。
葬儀は2日後の20日に自宅で営まれた。

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漱石と中根家の人々

裏表がなくずけずけとものを言う鏡子の性格は、鏡子を含めた中根家の姉妹に共通したものだったらしい。
後述する孫の半藤末利子(長女・筆子と松岡譲の四女。
小説家・半藤一利夫人)の手記によると、鏡子の妹達がそれぞれ夫を迎えてからも、姉妹間の行き来は前と変わることがなく、彼女達の夫達も漱石とは相婿として親しく兄弟付き合いをしていた。
また、この妹達は姉と同様に漱石に対してずけずけと、時には鏡子でも言いづらいことを言うこともしばしばだったが、漱石は義兄である自分にこのように話す彼女達を歓迎していたようである。
殊に鏡子の末妹に対しては、彼女が物心ついた時には、中根家が没落し始めており、姉達のように良い暮らしができずに育ったことを憐れんでか、彼女をよく可愛がり、何かと理由をつけては小遣いを与えたり着物を買ってやったりしたという。
鏡子もこのことをよく承知しており、漱石の機嫌が悪くてどうしようもないときは、彼女に家に来て取り成してくれるように頼むことがよくあったらしい。

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悪妻説

先にも述べたように、鏡子に対しては悪妻、猛妻のイメージがついて回っている。
確かに、男尊女卑の風潮が強かった当時人々からすれば、鏡子の行動はそのように受け取られてもやむをえない面があった。
ただ、2004年に発売された文藝春秋の臨時増刊号「夏目漱石と明治日本」に寄稿された孫の末利子と夏目房之介(長男・純一の子)の手記によれば、鏡子に多少そのような面はあったものの、性格に裏表がなく、弱いものに対する慈しみの気持ちの強い、子供や孫に慕われる良き母であり良き祖母であって、寧ろ非難されるべきは、すぐに妻子に対して暴力を振るう漱石である、とも受け取れる書き方が各々の記事でされている。
また、房之介が小説坊っちゃん』の主人公を暖かく見守る下女・清(きよ)について、鏡子の本名がキヨであることに注目して、この作品が漱石から鏡子に宛てたラブレターだったのではないか、と指摘している。
また、出久根達郎は同誌に寄稿された記事で、漱石と鏡子との間に2男5女が生まれたことや、漱石が経済的に苦しい立場にあるかつての教え子達に金銭面での援助をする際に、鏡子が漱石に言われたとおりにポンと、当時としてはかなりの額の金銭を貸与している事実を挙げて、鏡子から金を借りることの多かった連中が若者特有の反発心や大金を借りることへのバツの悪さを感じたことから、鏡子悪妻説が出てきたのではないかと指摘している。

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文筆家・音楽家としての鏡子

鏡子は、1928年に漱石との結婚生活を口述し、それを漱石の弟子で長女・筆子の夫の譲が筆録して『漱石の思ひ出』として上梓している。
また、北原白秋の詩『うさぎのでんぽう』に曲をつけたことでも知られる。
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