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劉勲とは?
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劉勲は江夏太守の黄祖の支援を受けて西塞山において、孫策と戦ったが完敗したという(『三国志』魏志「劉曄伝」、『三国志』呉志「破虜討逆伝」)[9]。
その後、劉勲は親交のあった曹操を頼り、北方へと落ち延びて行った。
曹操は劉勲を迎え入れ列侯に取り立て、劉勲を議論や軍事の場に参加させたという(『三国志』魏志「司馬芝伝」が引く『魏略』)。
曹操が魏公に推挙されたときの上奏文に名を寄せた群臣達の中に、征虜将軍・華郷侯の劉勲の名がある(『三国志』魏志「武帝紀」が引く『魏書』)。
また曹丕との宴席に、奮威将軍の鄧展と共に招かれていたことがあるという[10](『三国志』魏志「文帝紀」が引く『典論』序)。
やがて劉勲は曹操との旧縁を頼みに、次第に思い上がるようになり、しばしば法令を犯し誹謗の言葉を吐くようになっていった。
また、劉勲の部下や食客にも法令を犯す者が多かった(『三国志』魏志「司馬芝伝」が引く『魏略』)。
劉勲は河内郡に駐屯していたが、あるとき、食客らが郡境で法令に違反することがあった。
劉勲は当時広平の県令であった司馬芝に手紙を送り、手心を加えるようそっと依頼したが、司馬芝は手紙に返事も返さず、法に従い処置したという(『三国志』魏志「司馬芝伝」)。
また、楊沛は法に厳しい処分を執ると、かねてより評判であった。
あるとき、楊沛が鄴の令に赴任してくるという話を聞いた劉勲は、同様に驕慢な振る舞いが多かった曹洪と共に楊沛を恐れ、わざわざ一族や子弟に知らせて身を慎むよう注意させたという(『三国志』魏志「賈逵伝」が引く『魏略』)。
こうした一族や食客の数々の法令違反行為を、李申成という人物が告発したことがきっかけとなり、劉勲は罪に問われて処刑された。
連坐として一族の劉威も免職となったという(『三国志』魏志「司馬芝伝」が引く『魏略』)。
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