Weblio辞書辞典>辞書・百科事典>劉勲>劉勲の1ページ目
劉勲とは?
ウィキペディア目次へ劉 勲(りゅう くん、生没年不詳)は、中国後漢末期の武将・政治家。
字は子台[1]青州琅邪郡の人[2]。
妻は王宋と山陽郡の司馬氏。
兄が1人(名は不明)[3]。
従弟に劉偕[4]。
甥(兄の子)に劉威[5]。
『三国志』に伝はないが、各所に記録がある。
娘が一人いる[6]。目次
1 生涯
├1.1 孫策に敗れる
└1.2 曹操に仕える
2 脚注
3 参考資料
袁術の故吏であり、曹操とも旧知であったという(『三国志』呉志「破虜討逆伝」、『三国志』魏志「司馬芝伝」が引く『魏略』)。
中平年間には沛国建平の県長を務めていた(『三国志』魏志「司馬芝伝」が引く『魏略』)。
揚州に進出した袁術は、廬江郡を孫策に命じて攻略させたが、太守の座には孫策ではなく、自分の元々の部下である劉勲を任命した(『三国志』呉志「破虜討逆伝」)。
劉勲は皖城を本拠としていた。建安4年(199年)6月[7]に袁術が死ぬと、劉勲は孫策を頼って落ち延びようとする、袁術軍の大将の楊弘と張勲らを捕虜とし、財宝を略奪し、その軍勢も吸収したという[8]
同じ頃、皇族の流れを汲む豪族の劉曄は、賊の鄭宝を討ってその配下を降参させて軍勢を手に入れていたが、資力などの問題から自身で軍勢を率いることを望まなかったため、劉勲に鄭宝の軍勢を預けることを申し出てきた。
劉勲は不審がったが、劉曄が説明をすると納得し、鄭宝の軍勢をも吸収した(『三国志』魏志「劉曄伝」)。
こうして劉勲は長江・淮河の一大勢力へと発展した。
しかし急増した兵を養えず、慢性的な兵糧不足に悩むことになる。
孫策はかねてから劉勲の勢力に恐れを抱き、表向きは友好関係を取り繕いつつ、攻撃の機会を狙っていた。
あるとき、孫策は劉勲に贈り物と共に謙った内容の手紙を送り、予章郡の上繚の賊を共に討つことを提案してきた。
孫策の意図に疑問をもった劉曄は反対したが、劉勲は兵糧確保をする必要もあり、上繚へ出兵した。
しかし、やはりその隙に本拠である皖城を孫策に攻め取られてしまった。
注目の情報
ページ(1/3)
次ページ≫