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公孫淵とは?




その首は堆く積まれ京観(高楼)と呼ばれた。
公孫淵の首は洛陽に送られ、洛陽に留まっていた兄の公孫晃の一族も死を賜ることになり、遼東公孫氏は滅亡した。
なお、追放された叔父の公孫恭は反乱の際に疑われ都に幽閉されていたが、司馬懿より忠士であるとして反乱鎮圧後に釈放されたという。

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倭との関係

遼東滅亡が、邪馬台国卑弥呼が帯方郡(魏)に使を派遣することにつながった、との説がある。
これは当時の公孫氏政権が事実上の自立状態にあり、邪馬台国をはじめとする東方諸国の使者を遼東に留めて、自らへの朝貢をさせていたものが、公孫氏の滅亡により通路が通じるようになったという見解に基づくものである。
なお、魏志倭人伝においていわゆる倭国大乱から卑弥呼の遣使まで倭国に関する記述が途絶えるが、この期間が公孫氏が遼東で自立していた時期と重なることも根拠に挙げられている。
卑弥呼の帯方郡への遣使はちょうど遼東滅亡の直前である景初2年6月と魏志倭人伝に記述される。
これについては、公孫淵の治める帯方郡など遼東での戦乱の最中に遣使は困難であるとして、翌年の景初3年ではないかという説[1]もある。
ただし、卑弥呼の遣使2人で朝貢物が奴婢10人布2匹2丈とかつての奴国の貢物奴婢160人と比べても粗末なものであったのに、魏が邪馬台国を厚遇しているのは、公孫氏政権からいち早く魏に乗り換えた事の功績が認められたからという観点から、公孫氏政権滅亡直前のこの時期の遣使が正確であるという説[2]もある。

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関連項目

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注釈
    ^ 姚思廉は『梁書』では「至魏景初三年 公孫淵誅後 卑彌呼始遺使朝貢」、『北史』 倭国伝では「魏景初三年 公孫文懿誅後 卑彌呼始遣使朝貢」と公孫淵が殺された後の景初3年とした。
    また、『日本書紀』では神功皇后39年に干支年の太歳己未と分注に明帝景初3年6月とする。
    松下見林も景初3年であった。^ 古田武彦『『邪馬台国』はなかった』(1971年)

(出典:Wikipedia 2012/03/06 16:42 UTC 版)

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