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八木城 (但馬国)とは?




第一次但馬国侵攻は、天正5年(1577年)11月上旬開始されたが、上月城の城主上月政範が謀反したため、羽柴秀吉軍は但馬国を撤兵、同年11月27日に上月城の攻城戦を開始しわずか7日間で落城した。
この時播磨国と但馬国に戦線が拡大するのを恐れた羽柴秀吉軍は、但馬国に関してはそのままの状態となり、八木豊信もそのまま留まった。
しかし、翌1578年(天正6年)には羽柴秀吉は竹田城にいた。
信長公記』によると、

羽柴筑前は但馬国へ相働き、国衆前々のごとく召出し、竹田の城に木下小一郎入置かれ候キ
信長公記 六月廿六日

と記している。
つまり6月には、羽柴秀吉軍は竹田城に入城しており竹田城を拠点として但馬国の奪取を企て、恐らく八木城周辺が織田軍と毛利軍の最前線となっていた。
天正7年(1579年)7月毛利軍に属していた吉川元春隊は、垣屋豊続の要請により竹野まで出軍してきたが、南条氏が後方で離反したため撤兵した。
これにより、八木豊信は毛利方から織田方に寝返り羽柴秀吉軍の軍門に降ったと思われている。
その後羽柴秀吉に従って八木豊信は因幡攻めに参戦し、天正8年(1580年)5月21日鳥取城の攻城の拠点として八木豊信は若桜鬼ヶ城に入り守備していた。
しかし天正9年(1581年)3月18日鳥取城に吉川経家が入城すると、吉川元春は活気づき巻き返しを開始、若桜鬼ヶ城に攻城し支えきれず但馬国へ退却してしまい、八木豊信はその後行方不明となってしまう。
別所氏時代

1585年(天正13年)、八木城の城主となったのは別所重宗で1万5千で登用された。
別所重宗とは三木合戦で亡くなった別所長治叔父に当たり、東条城を本城とし、屋口城を支城としていた。
別所長治は毛利氏についていたが別所重宗は織田氏に属していた。
しかし、東条城が1581年(天正9年)の羽柴秀吉の「城割」となると、別所重宗はしばらくの間本城は持っていなかったようである。
別所重宗が入城するとただちに改修にとりかかり、織豊勢力のシンボルとして石垣の城に改修した。
その後別所重宗とその後を継ぎ八木城城主となった別所吉治親子は、九州の役小田原征伐文禄の役に参戦したが、八木城の実績は不明である。
八木城が廃城になったのは、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで別所吉治が西軍に属したため、改易となり城も廃城となった。
逸話

この城には「血の谷」「ふるやが谷」などの地名が残っている。
この地名の舞台になったのが、1577年(天正5年)と1580年(天正8年)の羽柴秀吉但馬国侵攻の時だったのか、いつの時代かはっきりしていないが、攻城戦に関連している。
八木城は大軍に囲まれ、小さい戦いは毎日行われていた。
攻め手は決定打にかけ水源を経つために、老婆に大金を与え、今滝寺村の少し奥から水路を引いていたことをつきとめ、水の手を経つことに成功した。
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