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八木城 (但馬国)とは?
この城の歴史は古く鎌倉時代からの城として重要な遺構が残っていることから、1997年(平成9年)3月6日に国の史跡に指定されている。
伝承によると1063年(康平6年)閉伊頼国が前九年の役で功労があり、源頼家から但馬国が与えられ、八木の地に築城したのが始まりではないかと言われている。
しかし『日本城郭大系』によると「確かな史料はない」とし不明としている。
その後1194年(建久5年)に朝倉高清が源頼家から但馬国を与えられ朝倉城を築城し、朝倉氏と閉伊氏の間で何度か合戦があり、朝倉氏は閉伊氏に勝利し、朝倉高清の第二子、重清を八木城の城主とし、八木の姓を名乗られ八木重清となった。
以後八木氏は15代、300年以上にわたりこの地で栄え、第六代城主八木重家は但馬国守護山名時氏、山名時義の重臣となり太田垣氏、垣屋氏、田結庄氏と共に山名四天王に数えられた。
第15代城主八木豊信になると但馬国の状況にも変化がでてくる。
但馬国守護山名氏の勢力が弱体していくと、織田氏と毛利氏が但馬国に手を伸ばしてきた。
『八木豊信書状』によると天正3年(1575年)11月に八木豊信は吉川元春に但馬国の状況を報告し、出兵を懇請している記述が見受けられる。
また織田信長の命に従い羽柴秀吉を総大将に1577年(天正5年)と1580年(天正8年)の二度に渡って侵攻してきた。
これに伴い1578年(天正6年)時点では織田勢に属していた田結庄是義、垣屋光政、山名祐豊と、毛利勢に属していた垣屋豊続、太田垣輝延、八木豊信に勢力が二分したようである。
八木豊信は表面的には毛利勢に属していたが、後に態度が変節していったと思われている。
『ひょうごの城紀行』によると「天正四年段階には八木氏は、はっきりと毛利派であったが、天正六年段階では消極的になっていたようである」と解説している。
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