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ステンレス鋼とは?


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フランスの鉱山技師、ベルティェ(Pierre Berthier、1782-1861)はファラデーとストダートの論文を元に、まだ誰も試みていない脆い金属であったクロムの鉄との合金を試みた。
当初、炭素濃度の高い鋼で合金を作ったため、非常に脆かったが硬度は高く、王水でも容易に侵されない耐酸性を示した。
これが最初のフェロクロムである。
次に炭素1%程でクロム1.0%と1.5%のフェロクロムを作り、ナイフとかみそりに加工したが良好な切れ味と共にダマスク紋様が現れた。
1921年に論文によってフェロクロムとその耐酸性を示したベルティェは、その後、ボーキサイトをアルミの原料として発見したことで、より有名となった。
ウァラデーはベルティェの論文を読んで、すぐさまクロム鋼を実験し自身の発表直前の論文『鋼の合金について』に加えた。
父の製鋼工場を継いだ、英国、シェフィールドのR.A.ハドフィールド(Robert Abbott Hadfield、1858-1940)は1878年のパリ万博でマンガン鋼を知ってから研究を始め、高マンガン鋼の系統的な分析を行なって1882年に高マンガン鋼の公演を行なった。
その後、鉄とシリコン、鉄とアルミニウム、鉄とクロムに関する研究を行った。
鉄とクロムの研究過程で、合金鋼の権威的研究者の誤った「クロムは鉄の耐酸性を劣化させる」という報告によって、クロム鋼の耐酸性を見落とし、同じシェフィールドのH.ブレアリーにクロム13%、炭素0.3%の刃物用ステンレス鋼を発明されて名誉を逃した。
これ以前にも前述のようにフランスのベルティェが「高クロム鋼は王水でも容易に侵されない耐酸性を持つ」と論文発表していたが、耐酸性クロム鋼の発明者はベルティェでもハドフィールドでもなく、ブレアリーとなった。
ハドフィールドはその後も会社経営とともに研究を続け、1908年にはナイト爵を、1917年には準男爵に叙せられるなど、活躍した。
鉄・クロム・ニッケル合金の発明

鉄・クロム・ニッケル合金の発明は、ただ1つの発明過程によって得られた1種類の合金ではなく、ヨーロッパの複数の国・人物によって行なわれた多数の改良や発見を経て得られた各種の鉄合金の製作の積み重ねであった。
個々には具体的な合金比率当は省くが、以下の実験と研究の過程で作られた合金の中には今日でも使用されている鉄・クロム・ニッケル合金の含有比率を備えた金属が多数得られていたことが、論文中や後の分析で明らかになっている。
このことが、単一の研究結果だけを指して特定の合金の発明・発見とは云えない理由となっている。
最初は1894年にドイツの兵器メーカー、クルップ社がCr2.0%、Ni3.5%、C0.35%のクロム・ニッケルの鉄合金を強靭鋼として防弾鋼板に開発・使用した。
フランスのギレー(Leon Alexandre Guillet、1873-1946)が1903年と1904年、1906年に鉄・クロム・ニッケル合金を含む各種鋼合金に関する3つの論文を発表した。
ギレーは化学成分と熱処理によって金属組織が変わる事は示したがステンレス鋼の最も重要な特性である「不動態」に関しては記述しなかったため、発明者と呼ばれることは一部を除いてあまりない。
彼の論文でのクロム鋼の組織図に関する概念が後のクロム鋼研究の発展に大きく寄与した。
フランスのギレーと同じ工芸学校の教授職に5年後に着いたポートヴァン(Albert Marcel Portevin、1880-1962)は、ギレーの研究を引き継いでさらに詳しくギレーの作った金属サンプルを調べて物性などを研究して論文に発表したが、先輩と同じく耐蝕性に関する観点ではこれらの金属を見ることはなかった。
組成と焼き入れ、焼鈍しによって硬度がどのように変化するかについてが、この時点での研究の中心であった。
ドイツのアーヘン王立工科大学の研究生だったモンナルツ(Philipp Monnartz)は1911年に工学博士のための学位論文として提出・発表した中で、鉄クロム合金の耐酸性に関して不動態によるものとして明らかにし、高い耐蝕性を持つ高クロム鋼の重要性を示して大きな反響を呼んだ。
その後、多くの研究論文が鉄クロム合金の耐酸性と不動態に関して発表されるなど、ステンレス時代が開くきっかけとなったが、功績者であるモンナルツ自身には工学博士と認められた以上の経歴が残されていない。
この後、鉄・クロム・ニッケル系の合金に関する多くの研究成果を残すのは、ドイツのクルップ第2研究所に1896年入社のシュトラウス(Benno Strauss、1873-1944)とその助手として13年後に入社したマウラー(Eduard Maurer、1886-1962)であった。
両者はそれぞれに研究を行い、クルップ社は彼らの研究から得られた合金に対していくつかの特許を取得した。
すべての発明がシュトラウスのものであるとされたために、マウラーは1925年に異議を唱え、その後、発明者としての功績に関して、公開された書簡論争にまで発展した。
英国シェフィールドのH.ブレアリーは1913年に所長として務めていた研究所の雇い主であったファース社とブラウン社に13%クロム鋼が高い耐蝕性を示すと報告したが、サンプルがあまりに硬くて研削と鍛造に向かないと両社は興味を示さなかった。
1914年から彼はチーズナイフ等の形で錆びない金属の実用品を友人たちに配るなどしたのち、それが評判となってからは ファース社は自社で金属材料を販売しながら、ブレアリーは疎外するようになった。
このため、彼は1915年にブラウンベリー社に移って第一次世界大戦に使用される航空機エンジンのクランクシャフトなどを作る製鋼所長となった。
その後、1916年に特許に明るい英国人マドックスの尽力でステンレス刃物のカナダと米国の特許を取得し、1917年には日本とフランスでも特許を取得した。
ファース社では1914年に、すでにドイツとイギリスで同様の特許を出願済みの独クルップ社との間で英国での特許に関して交渉を行なっている間に、英国では多くの製鋼所が生産を始めており、特許を申請しようにもすでに周知の事実となってしまっていた。
こういった事情によって、ステンレス鋼の発明者として最初に英国のブレアリーの名が挙がるが、彼は自身の独自研究の結果掴んだ名誉というよりも、ギレーやポートヴァンらの見過ごしていた耐蝕性というステンレス鋼の特徴をほぼ最初に見抜いた点で優れ、また、雇用企業がステンレス鋼の長所を無視してもあきらめずに世間に製品を示し続けた点でも栄誉を受けるに値する[3]

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呼称

俗に、ステンレス鋼を「ステン」や「サス」と呼ぶことがある。
「ステン」とはステンレスの略であるが、「ステンレス=汚れない、錆びない」から否定辞の「レス」(less)を省くと、反対に「汚れ」「錆」と呼んでいることになる。
「サス」では品種番号のプリフィックス「SUS」を英語読みした呼び方([sʌs])である。
数字のついた鋼は混同しない場合に限り、SUS304を「サス・さんまるよん」、または単に「さんまるよん」と呼ぶことがある。
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