ショウ周の解説頁です。 Weblio辞書辞典>辞書・百科事典>ショウ周>ショウ周の1ページ目

ショウ周とは?



ウィキペディア
本来の表記は「譙周」です。
この記事に付けられた題名は記事名の制約から不正確なものとなっています。

譙 周(しょう しゅう、199年以前 - 270年)は、中国三国時代からの政治家、儒学者允南
巴西郡西充国の人。
身長は八尺、誠実で飾り気はなく、頭脳明晰だったが、不意の質問に上手く答えるような機転は利かなかった。
幼くして父を亡くしたため家は貧しかったが、勉強熱心で六経を精細に研究し、書簡に巧みで、天文の現象の解釈にも明るかった。
建興年間に諸葛亮に登用され、劉禅に仕え勧学従事になった。
諸葛亮が死去した時は譙周は家にいたが、直ちにその場に駆けつけた。
諸葛亮の死後、その遺志を受けて姜維北伐を再開したとき、その無謀さを諌めるために『仇国論』を書いた。
また彼は太子僕に任命され後に、光禄大夫に昇進した。
ただ学問や教育の分野では重用されたが、政治に関わることはなかった。263年蜀漢に侵攻して来ると、真っ先に劉禅に降伏を勧めた。
劉禅は譙周の提案に従い、魏に降伏した。
その後、魏の相国であった司馬昭に陽城亭候に封ぜられた。
譙周が死去する前年の269年に、弟子の陳寿が休暇を取るため譙周の元へ別れの挨拶に来た[1]
譙周は陳寿に、「その昔、孔子は72歳で、劉向揚雄は71歳でこの世を去った。
今わしの年は70を越えている。
できれば孔子の遺風を慕い、劉向・揚雄と軌を同じくしたいものだ。
おそらく次の年を迎えることなく、きっと長の旅路に出るであろうから、二度と会うことはないであろう」と告げたという。
このため陳寿は、譙周は未来を予知することができる術を得ていたのであろう、と評している。
譙周は杜瓊讖緯予言)を学んだが、魏がに取って代わる存在になることや、司馬昭の死を予言していたのだという。
270年秋、西晋に散騎常侍に任命されたが、重病のため拝命せず、その冬死去した。
後世では投降主義者と見做され評価は低い。
例えば王夫之『読通鑑論』では「姦佞売国」と罵倒されている。
小説『三国志演義』では、劉璋劉備に降伏することを率先して賛成したため、黄権劉巴から殺されかけている。
それが、後に劉禅に降伏を進言する伏線になっている。
逸話

蜀の景耀五年(262年)、宮中の大木が特別の理由もないのに自然に折れてしまった。
譙周は大そう心配したが、相談する相手もなかったので、柱に次の様な文句を書き記した。
「衆(おお)くして大なれば、その下に集まる。
徳備わって天命降れば、再び動かし得ず。
楽に探せる!楽ワード

ページ(1/2)
次ページ

ページTOP▲
Weblio辞書辞典
「ショウ周」の記述に関する著作権




ランダム表示|登録辞書一覧
Weblio辞書辞典

お気に入りに登録
友達にも教える
「ショウ周」の記述に関するお問合せ

Weblio辞書辞典|ヘルプ|お問合せ
©2012Weblio