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グレート草津とは?




豊登から出身地の熊本にちなんで草津清正のリングネームを付けられ、ジャイアント馬場の付け人となる。1966年3月21日、本間和夫戦でデビューするが、団体の放漫経営に嫌気がさし、その年のうちに退団。
同じく同団体を退職していた吉原功とともに国際プロレス(以下「国際」)の旗揚げに参加する。
国際旗揚げ直前、カナディアン・フットボールチーム(BCライオンズ)のキャンプに参加している。
ラグビーの経験があったため、選手として入団するよう誘われたという(草津自身も、機会があればフットボールに戻りたい意思があった)[⇒『要出典』]
バックドロップ失神事件

1968年1月3日、TBS定期放送初回でルー・テーズに挑戦したTWWA世界ヘビー級選手権メインイベントでのKO敗戦は、草津がその後遂にエースになれなかったこと、また国際プロレスが苦しい経営を続けて終焉を迎えたことから、草津のレスラー人生のみならず、団体の運命をも決定づけた一戦として、早くから伝説的に語られてきた。
失神」とされることが多いが、完全な失神はしていなかったという説もある(後述)。
プロレス入りから2年半足らず、海外修行から戻ったばかりで国内での試合実績の乏しい草津のエース登用は、フレッシュなスターを求めるTBSの強い要望であったといわれている。
放映初戦で超大物のテーズを倒しての戴冠となれば大きなインパクトがあったが、敗北でその目論見は崩れてしまった。
この試合については様々な解釈がされてきたが、大別すれば「キャリアの浅い草津が受け身を取り損ねた」と「テーズが意図的に受け身の取れないバックドロップを仕掛けた」の二通りに分かれていた。
いずれにしろ、草津は試合放棄をせざるをえない程の深いダメージを負い、実際に半失神状態になった、との見方が一般的であった[⇒『要出典』]
2000年代に入り、暴露本の出版等により「プロレスは基本的に予め決められたシナリオ(ブック)通りに進行するものである」という認識が一般化した。
それに伴いこの試合についても、「そもそもどういうブックであったのか?」「半失神状態もブックではなかったのか?」という疑問が提示され、見方も混沌としていった。
そのような状況の中、2005年発行の書籍『悪役レスラーは笑う』(森達也著)中のインタビュー記事において、草津本人がこの件に言及した。
それによれば、1本目を取られた後、グレート東郷の「キープ・ステイ・ダウン(そのまま寝ていろ)」という指示に従って起き上がらず、試合放棄という結果になったとのことである。
これは半失神状態が演技であったことを、本人が初めて具体的に認めた証言として興味深いものであった。
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