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アンタッチャブル (お笑いコンビ)とは?
・このころの山崎は、柴田に内緒でくりぃむしちゅー有田へ「芸人を辞めて有田の座付き作家になりたい」と言う話を持ちかけており、M-1で優勝するまでは、本気で漫才師を辞めて作家になるつもりでいた。
このことから有田は、2003年大会以降でアンタッチャブルが躍進した理由を「(やろうとしている柴田と辞めようとしている山崎という)価値観が違う2人が漫才をやったから弾けた」と分析しており、「取材でなぜアンタッチャブルが優勝したかを聞かれたときも『山崎が(漫才を)辞めようと思ったからです』と言ってる」と述べている。[2] 2004年(第4回)大会
・予選の段階では人力舎からはあまり期待されていなかった。
しかし、いざ決勝進出が決まると事務所は急に優勝を期待し始め、M-1決勝の2日前に優勝賞金を当てにして事務所の改装工事が行われたものの、その反面「M-1決勝のネタ合わせに事務所の稽古場を使いたい」というメンバーの要望は受け入れられず、近所の公園でネタ合わせをした。
・この大会で柴田が着ていたシャツは、おぎやはぎの矢作兼が2001年大会の決勝進出時に着ていたシャツ。
「自分たちの分も」という理由で託された。
またスーツはくりぃむしちゅーの上田に買ってもらい「これでとってこい」と言われたと当人が語っている。
・同じく優勝候補とされた笑い飯の得点が表示されたとき、メンバーの予想に反して点が伸びなかったため、優勝候補とされるコンビのハードルの高さを知り、自分達も同様に優勝候補とされていたことから緊張した。
実際、メンバーは出番が来るまで西田・哲夫と談笑しており、笑い飯の出番直前では、まるでもう優勝が決まっているかのようなテンションで「いってらっしゃい!」と笑顔で送り出した。
そのため最終決戦進出が決まった際は「これで負けたら笑い飯に会わせる顔がない、笑い飯の分まで頑張ろう」と思ったという。[3]
・決勝1回戦では「娘さんをください」というネタを披露。
一般審査制が廃止された第2回大会以後のファーストラウンド歴代最多得点(673 / 700点)を記録。
また、唯一審査員全員から95点以上の得点を得て(最高97点、最低95点)審査員全員から単独1位評価を受けた。[4]島田洋七に昨年のラサール石井に引き続き、「やっぱり、眼鏡かけてるツッコミの君上手いよ。
」と評されて柴田が謙遜しようとしたが、なぜか山崎が謙遜した。
また、審査員の春風亭小朝に「これ以上のネタを持ってこれるか?」と心配されたが、2回戦では「息子の万引き」というネタを披露、7人中6票を獲得して優勝した。
・ちなみにこの大会について松本人志は「去年(2004年)のM-1はアンタッチャブルがいなかったら最悪だったと思う。
最初から最後まで笑いを取っていたのはアンタッチャブルだけだった」と語っている。[5]
・優勝後の特別番組で、事務所に取られた金額を差し引いた600万円を分けた額300万円が、柴田に渡されたが、山崎には過去の借金などでくりぃむしちゅーの有田哲平が書いた領収書と、300枚の「10,000」と書かれた紙の束を渡された(これはギャグであり、その後控え室で司会の木村祐一から現金で300万円を渡された)。
山崎は細々と有田に返済した一方で、賞金獲得後に金遣いが荒くなり贅沢をするようになったと暴露された[6]。
・結成当初のコンビ名は「シカゴマンゴ」だった。
これは二人にコンビを組ませた(スクールJCA・お笑い養成所時代の)先輩が考えたもの。
その後まもなく、山崎は独断でコンビ名を「アンタッチャブル」に変更した。
映画タイトルの『アンタッチャブル』が由来である。
初めてのライブ出演のとき「シカゴマンゴ」のコンビ名が出演表に書かれていなかったことから、柴田は「このライブには出られない」と思ったが、スタッフから「アンタッチャブルさん」と呼ばれ、そのときに初めてコンビ名が変わったことに気づいたという。
なお、「シカゴマンゴ」は、2010年3月までに出演していたラジオ番組の名称として用いた。
・若手の頃、山崎は仕事に遅刻をしてしまうことがたびたびあった。
柴田が占い師の元へ仕事の悩みを相談しに行くと「今のままでは相方に足を引っ張られて、あなたも潰れてしまう」と言われた。
しかし、時間に遅れても舞台にやって来る山崎の姿を見て柴田はいつも感謝して泣いたと語っている(「白黒アンジャッシュ」より)。
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