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おぎやはぎとは?
・ラーメンズとも交友があり、おぎやはぎ・バナナマン・ラーメンズで君の席というユニットを組んでいた。
また、バナナマンも「俺たちは7~8割は人力舎に育てられた」と恩義に感じていることを語っている。
・初期のライブは「おぎやはぎ+3」でラーメンズの小林、アンタッチャブル山崎、当時アルファルファ(現在東京03)の飯塚と共演、「おぎやはぎつかじ」ではドランクドラゴンの塚地、当時アルファルファ(現在東京03)の飯塚と共演、「東京ヌード」ではドランクドラゴン、東京03とユニットを組むなど、公私ともに交流がある芸人との共演が多い。
・一時、入ったばかりの若手が、アンジャッシュやおぎやはぎなどの先輩芸人を前々からテレビで見ている事から、挨拶などが必要以上にすごかったらしいが、おぎやはぎ矢作が「それ(挨拶)をやめさせろ」という発言をしたらしく、最近は以前以上に上下関係がなくなったとの情報もある(これは「必要以上に先輩というだけで気を使わせないため」「恐怖政治のような上下関係は笑いにおける妨げになる」という矢作なりの考えがあってのことである)。
・メガネブームの火付け役の1組。
現在はそれぞれ日本メガネ党の党首・幹事長として、メガネの素晴らしさを世にひろめる運動をすすめている。
・2人そろって眼鏡をかけるようになったのは、加藤浩次の助言によるもの。
それ以前は小木しか眼鏡を掛けていなかった。
明石家さんまからは「2人そろって眼鏡かけているコンビは珍しいよねえ」と言われている[3]。
・結成6年目に第1回大会決勝進出(関東組では唯一の決勝進出)したが、新ネタ(「歌手になりたい」というネタ)を本番でやってしまう(矢作曰く「魔が差した」)。
審査員は皆キョトンとした表情を浮かべていた。
結局、全10組中ダントツで最下位(540 / 1000点 、9位DonDokoDonは614点)と言う悲惨な結果となった。
大阪の一般審査員からは(9 / 100点)と一桁得点。
会場は客の悲鳴が響き、本人たちもその異常さに微妙な失笑の表情を晒すこととなった。
DonDokoDonも大阪の一般審査では18点の低評価を受けた。
仮に一般審査がなければおぎやはぎ9位(497 / 700点)、DonDokoDon8位(520点)で、最下位はチュートリアルになっていた。
この一般審査に関しては、“関東芸人”を不当に低く評価したとして公平性を疑問視する声が出たため、翌年から一般審査員制度は廃止された。
第2回大会決勝では第4位と健闘し、審査員の立川談志に絶賛された(詳しくは後述)。
・上記の一般審査について、審査員の松本人志が「大阪の客、頭おかしいんちゃいます?」と番組中にもかかわらず語気を荒げて批判した。
当時会場で見ていた博多大吉は「2001年の時、会場は受けてたんだよね。
少なくとも地方票であんな点数取るほど酷い出来ではなかった。
あれは俺たちもおかしいとおもってたよ」と語っている。
・バラエティ番組などで共演した芸人に、時々第1回大会の事をネタにされるが、本人たちも「ビリでした」「大阪の票は100票中9票ですよ」「俺らのおかげでルールが変わった」と明るく自虐ネタにしている。
・後日談ではあるが、東京吉本の芸人はこの第1回大会で同事務所の芸人は応援せず、おぎやはぎを応援していた。
その応援は熱気を帯びており、ルミネtheよしもとにみんなで集まり、ワールドカップを応援するサポーターのように熱気を帯びていたと、ワッキーが述べている。
・おぎやはぎがM-1で残した功績は大きく、おぎやはぎが出て以降つっこみを行わない形式を取ったコンビが続出した。
大会実行委員長の島田紳助は、M-1、そして漫才の幅が広がったと 『松本紳助』(広島テレビ)で語っている。
・M-1に第2回大会から9年連続決勝進出し、2010年に優勝した笑い飯も、おぎやはぎのスタイルに大きく影響を受けた。
彼らが東京勢で唯一笑ったコンビがおぎやはぎで、「次に売れるのはこの人たちやなと確信した。
この絶妙な間とこの空気を作れるのはこの人たちしかいないと思った」と、M-1事前番組で語っている。
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